源氏物語
夕霧二
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小野《おの》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)着|馴《な》らした

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]帰りこし都の家に音無しの滝はおちね
[#地から3字上げ]ど涙流るる        (晶子)

 恋しさのおさえられない大将はまたも小野《おの》の山荘に宮をお訪《たず》ねしようとした。四十九日の忌《いみ》も過ごしてから静かに事の運ぶようにするのがいいのであるとも知っているのであるが、それまでにまだあまりに時日があり過ぎる、もう噂《うわさ》を恐れる必要もない、この際はどの男性でも取る方法で進みさえすれば成り立ってしまう結合であろうとこんな気になっているのであるから、夫人の嫉妬《しっと》も眼中に置かなかった。宮のお心はまだ自分へ傾くことはなくても、「一夜ばかりの」といって長い契りを望んだ御息所《みやすどころ》の手紙が自分の所にある以上は、もうこの運命からお脱しになることはできないはずであると恃《たの》むところがあった。九月の十幾日であって、野山の色はあさはかな人間をさえもしみじみと悲しませているころであった。山おろしに木の葉も峰の葛《くず》の葉も争って立てる音の中から、僧の念仏の声だけが聞こえる山荘の内には人げも少なく、蕭条《しょうじょう》とした庭の垣《かき》のすぐ外には鹿《しか》が出て来たりして、山の田に百姓の鳴らす鳴子《なるこ》の音にも逃げずに、黄になった稲の中で啼《な》く声にも愁《うれ》いがあるようであった。滝の水は物思いをする人に威嚇《いかく》を与えるようにもとどろいていた。叢《くさむら》の中の虫だけが鳴き弱った音《ね》で悲しみを訴えている。枯れた草の中から竜胆《りんどう》が悠長に出て咲いているのが寒そうであることなども皆このごろの景色《けしき》として珍しくはないのであるが、折《おり》と所とが人を寂しがらせ、悲しがらせるのであった。
 夕霧は例の西の妻戸の前で中へものを言い入れたのであるが、そのまま立って物思わしそうにあたりをながめていた。柔らかな気のする程度に着|馴《な》らした直衣《のうし》の下に濃い紫のきれいな擣目《うちめ》の服が重なって、もう光の弱った夕日が無遠慮にさしてくるのを、まぶしそうに、そしてわざとらしくなく扇をかざして避けている手つきは女にこれだけの美しさがあればよいと思われるほどで、それでさえこうはゆかぬものをなどと思って女房たちはのぞいていた。寂しい人たちにとってはよい慰安になるであろうと思われる美しい様子で、特に名ざして少将を呼び出した。狭い縁側ではあるが、他の女がまたその後ろに聞いているかもしれぬ不安があるために、声高には話しえない大将であった。
「もう少し近くへ寄ってください。好意を持ってくれませんか、この遠方へまで御訪問して来る私の誠意を認めてくだすったら、最も親密なお取り扱いがあってしかるべきだと思いますよ。霧がとても深くおりてきますよ」
 と言って、ちょっと山のほうをながめてから大将がぜひもっと近くへ来てくれと言うので、余儀なく鈍《にび》色の几帳《きちょう》を簾《すだれ》から少し押し出すほどにして、裾《すそ》を細く巻くようにした少将は近くへ身を置いた。この人は大和守《やまとのかみ》の妹で、御息所《みやすどころ》の姪《めい》であるというほかにも、子供の時から御息所のそばで世話になっていた人であったから喪服の色は濃かった。黒を重ねた上に黒の小袿《こうちぎ》を着ていた。
「御息所のお亡《かく》れになったのを悲しむことと宮様のいつまでも御冷淡であらせられるのをお恨みするのが私の心の全部になって、ほかのことは頭にありませんから、だれからも私は怪しまれてしかたがありません。もう私に忍耐の力というものがなくなりましたよ」
 これを初めにして、夕霧はいろいろと恋の苦しみを訴えた。御息所の最後の手紙に書かれてあったことも言って非常に泣く。少将もまして非常に泣く。
「その時のことでございますがね、あなた様がおいでにならぬばかりか、御自身のお返事もおもらいになれないままで暗くなってまいりますのに悲観をあそばしましてとうとう意識をお失いになりましたのに物怪《もののけ》がつけこんで、そのまま蘇生《そせい》がおできにならなかったのだと私は拝見いたしました。以前の御不幸のございました時にも、もうそんなふうにおなりになるのでないかと私どもがお案じいたしましたようなことがおりおりございましたが、宮様がお悲しみになってめいっておいであそばすのをおなだめになりたいとお思いになるお心の強さから、御健康をお持ち直しになったのでございます
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