いた人であるが、院も御息所《みやすどころ》も御同意のもとでお嫁《とつ》がせになって自分はその人の妻になったのである、その良人《おっと》すら自分に対していだいていた愛はいささかなものであった、ましてこうしてあるまじい恋に堕《お》ちては、しかも知らぬ中でなく、故人の妹を妻に持つこの人との名が立っては、太政大臣家ではどう自分を不快に思うことであろう、世間で譏《そし》られることも想像されるが、それよりも院がお聞きになってどう思召すであろう、必ずお悲しみあそばすであろうなどと、切り離すことのできぬ関係の所々のことをお考えになると、このことが非常に情けなくお思われになって、自分はやましいところもなく、大将の情人では断じてなくとも噂《うわさ》はどんなふうに立てられることか、御息所が少しも関与しておいでにならぬことが子として罪であるように思召され、こんなことをあとでお聞きになり、幼稚な心からときがたい誤解の原因を作ったとお言いになろうこともわびしく御想像あそばされる宮は、
「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」
 と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。
「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手《じょうず》に追いやってしまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
 大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚《うつろ》になったような気持ちであった。

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「萩原《はぎはら》や軒端《のきば》の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
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 あなたも濡衣《ぬれぎぬ》をお乾《ほ》しになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思いになるほかはないでしょう」
 と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、

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「わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ
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 ひどい目に私をおあわせになるのですね」
 と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い情誼《じょうぎ》を忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がるものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑《けんよく》は取り返しのつかぬ後悔を招くことではないかともいろいろに煩悶《はんもん》をしながら帰って行くのであった。深い山里の朝露は冷たかった。夫人がこの濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の花散里《はなちるさと》夫人の住居《すまい》へ行った。まだ朝霧は晴れなかった。町でもこんなのであるから、小野の山荘の人はどんなに寂しい霧を眺めておいでになるであろうと大将は思いやった。
「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」
 と女房たちはささやいていた。
 夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾|襲《かさね》となく作って用意してある養母であったから、香の唐櫃《からびつ》からすぐに品々が選び出されたのである。朝の粥《かゆ》を食べたりしたあとで夫人の居間へ夕霧ははいって行った。夕霧はそこから小野へ手紙をお送りした。
 山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した昨夜《ゆうべ》のことで、無礼なとも、恥を見せたともお思いになることで夕霧への御反感が強かった。御息所の耳へはいることがあったならと羞恥《しゅうち》をお覚えになるのであるが、またそんなことがあったとは少しも御息所が知らずにいて、不意に何かのことから気のついた時に、隔て心があるように思われるのも苦しい、女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえないと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少ない母と御子なのである。世間に噂の立
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