んでしまった。今まで愛情の点では批議すべき点もあったが、形式的にはよく御待遇をして、あくまで御降嫁を得た夫人として敬意を失わない優しい良人《おっと》であったのであるから、恨めしい思いを格別宮は抱いておいでにならなかった。こんな短命で終わる人であったから何にも興味が持てない寂しいふうを見せたのであったかと追想あそばされるのが悲しかった。御息所《みやすどころ》も早く不幸な未亡人に宮のおなりになったことを悲しんでいた。衛門督の死で大臣と夫人はまして言いようもない、悲歎《ひたん》に沈んでいた。自分が先に死ぬのが当然なことであるのに、あまりにも道理にはずれた死であると泣きこがれているが、それが何のかいのあることとも見えなかった。女三《にょさん》の宮《みや》は衛門督《えもんのかみ》の恋を苦しくばかりお思いになって、長く生きていようとお望みにならなかったのであるが、死の報をお得になってはさすがに物哀れなお気持ちになった。若君を自身の子のように衛門督は思っていたが、衛門督の死におあいになってみると、神秘なかかわりもある気があそばされて、衛門督が信じていたことがほんとうであったかもしれぬとお思われになり、いよいよ御自身の運命の悲しさにお泣きになるのであった。
三月になると空もうららかな日が続き、六条院の若君の五十日《いか》の祝い日も来た。色が白くて、美しいかわいい子でもう声を出して笑ったりするのであった。院がおいでになって、
「もうさっぱりした気分になりましたか。でも御|恢復《かいふく》になったかいもありませんね。今までのあなたでこうして快《よ》くおなりになったのを見ることができたらどんなにうれしいだろう。あなたは冷酷に私を捨てておしまいになりましたね」
と涙ぐんで恨みをお言いになった。毎日こちらの御殿へおいでにならぬ日はなくなって、こうした今になって最上のお扱いをあそばされるのであった。五十日の儀式に母君が尼姿でおいでになるのは、若君の将来を祝うことに不都合ではないかという意見をもつ女房たちもあって、どうしようかと言われているところへ院がおいでになって、
「少しもさしつかえない。若君が女であれば母君の運命にあやかってはならないとも考慮すべきだが」
とお言いになり、南向きの座敷に若君の小さい席を設けて祝い膳《ぜん》が供えられた。新しい乳母《めのと》たちは皆はなやかな服装をしていて、お膳部から女房たちのためのお料理の盛られた器まで皆きれいな感じのする式場であった。真相を知らぬ人々の寄贈したおびただしい祝品のあるのを御覧になっても、この誤りを正しくしがたい心苦しさから恥ずかしくばかりおなりになる院であった。尼宮も起きておいでになった。切りそろえられた髪の尖《さき》が厚くいっぱいに拡《ひろ》がるのを苦しくお思いになり、額の毛などを後ろへなでつけておいでになる時に、院は几帳《きちょう》を横へ寄せてそこへおすわりになると、宮は羞《は》じて横のほうへお向きになったが、以前よりもいっそう小柄にお見えになって、髪は授戒の日にお扱いした僧が惜しんで長く残すようにして切ったのであるから、ちょっと見ては普通の方のように思われた。次々に濃くした鈍《にび》の幾枚かをお重ねになった下には黄味を含んだ淡《うす》色の単衣《ひとえ》をお着になって、まだ尼姿になりきってはお見えにならず、美しい子供のような気がしてこれが最もよくお似合いになる姿であるとも艶《えん》に見えた。
「墨染めという色は少し困りますね。どうしても悲しい色でね、目がくらむ気がします。こうおなりになってもいっしょに暮らすことができるのだからと思って、みずから慰めようとしていますが、まだ今でも涙だけはあきらめてくれずに流れ出すので困りますよ。こんなふうにあなたに捨てられたのも、私自身の罪であると考えられることも苦痛のきわみですよ。取り返せないものだろうか」
と院は御|歎息《たんそく》をあそばして、
「ほんとうの尼の気持ちになっておしまいになれば、それは病気のためでなく、私がいやにおなりになったためにそうおなりになった気もして、私は情けないでしょうよ。やはり私を愛してください」
こうお言いになると、
「この境地にいては人を愛したりすることができないものだと聞いていますもの、まして私などは初めから愛するということがわからなかったのですから、どうお返事を申し上げればいいか存じません」
と宮はお返辞をあそばされる。
「しかたのない方ですね、おわかりになることもあるでしょうが」
と言いさしたまま院は言葉をお切りになって、若君を見ようとあそばされた。乳母《めのと》には貴族の出の人ばかりが何人も選ばれて付いていた。その人たちを呼び出して、若君の取り扱いについての注意をお与えに院はなるのであった。
「かわいそうに未来の少ない老いた父を持って、おくればせに大きくなってゆこうとするのだね」
と言って、お抱き取りになると、若君は快い笑《え》みをお見せした。よく肥《ふと》って色が白い。大将の幼児時代に思い比べてごらんになっても似ていない。女御《にょご》の宮方は皆父帝のほうによく似ておいでになって、王者らしい相貌《そうぼう》の気高《けだか》いところはあるが、ことさらお美しいということもないのに、この若君は貴族らしい上品なところに愛嬌《あいきょう》も添っていて、目つきが美しくよく笑うのを御覧になりながら院は愛情をお感じになった。思いなしか知らぬが故|衛門督《えもんのかみ》によく似ていた。これほどの幼児でいてすでに貴公子らしいりっぱな眼眸《めつき》をして艶《えん》な感じを持っていることも普通の子供に違っているのである。母の宮はそうであるとも確かにはわかっておいでにならなかったし、その他の人はもとより気のつかぬことであったから、ただ院お一人の心の中だけで、哀れな因縁であると故人のことを考えておいでになると、人生の無常さも次々に思われて涙のほろほろとこぼれるのを、今日は祝いの式ではないかと恥じてお隠しになり『五十八|翁方有後《をうまさにのちあり》静思堪喜《しづかにおもふによろこびにたへたり》亦堪嗟《またなげくにたへたり》』とお歌いになった。五十八から十を引いたお年なのであるが、もう晩年になった気があそばされて白楽天のその詩の続きの『慎勿頑愚似汝爺《つつしみてぐわんぐなんぢのちちににるなかれ》』を歌いたく思召したかもしれない。あの秘密にあずかった者がここの女房の中にいるはずである。その人たちは自分を愚人として侮蔑《ぶべつ》しているのであろうとお思われになることは不快であったが、自分のことは忍んでもよいが、宮をその人たちはどう思っているかという点までを思うと、宮のためにおかわいそうであるなどと院はお思いになって、あくまでも知らぬ顔を続けておいでになるのであった。無邪気にうれしそうな声をたてる若君の目つき、口つきは知らぬ人にわからぬことであろうが、自分が見れば全くよく似ているとお思いになる院は、親たちが子供でもあればよかったと言って悲しんでいるのに、これを見せてやることもできず、秘密な所にこの子だけを形見に残して、あの思い上がった男が、自身の心から命を縮めて死んだかと衛門督が哀れにお思われになって、失敬なことであると罪を憎んでおいでになった感情も消え、泣かれておしまいになるのであった。女房たちがいつの間にかお居間を出てしまったのを御覧になってから、院は宮の近くへお寄りになって、
「この人を何と思うのですか、こんなにかわいい人を置いて、この世をよくも捨てられましたね。冷酷ですよ」
と不意にお言いかけになった。宮は顔を赤めておいでになった。
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「たが世にか種は蒔《ま》きしと人問はばいかが岩根の松は答へん
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かわいそうですよ」
ともそっとお言いになったが、宮はお返辞もあそばさずにひれ伏しておしまいになった。もっともであるとお思いになって、しいてものをお言わせしようともあそばされない。どんなお気持ちでおられるのであろう、奥深い感情などは持っておられぬが、虚心平気でおいでにはなれないはずであると想像ができるのも心苦しいことであった。
大将は衛門督《えもんのかみ》が思い余って自分に洩《も》らしたことはどんな訳のあることであろう。故人があれほどまで弱っていない時であったなら、自身から言い出したことなのであるから、もう少し核心に触れたことも聞き出せたであろうが、もうあの際であったのがおりを得ないことで残念であったなどと考えていて、兄弟たち以上にこの人は故人を恋しがっていた。女三の宮がにわかに出家を遂げられたことも何か訳のあることらしい、そう大病でもおありにならなかった方を、院が何の抗議もあそばされずに尼にさせておしまいになってよいはずはないのである。二条の院の夫人があの重態になっていられた場合に、泣く泣く許しを乞《こ》われたのさえもお拒みになったのであるからというようなことも大将は考えられ、衛門督の問題と女三の宮の御出家とは関連したことに違いないということに思いは帰着した。昔から宮をお思いしていて、忍び余るような物思いの影を自分などに見せたこともある人である、自制していて表面《うわべ》だけはあくまでも冷静で、この人の心には何を思っているのかとうかがうのに苦しむほどであったが、感情に負けるところがあって、あまりに彼は弱い男であった、どんなにすぐれた恋人であっても、許されない恋に狂熱を傾け、最後に身をあやまるようなことをしてはならないのである、一方の人のためにも気の毒なことであるし、彼が自身の命をそれに捨てたのも賢明なことではない、皆前生の因縁とはいいながらも、やはり軽率なことであったと、大将は自身一人で思っていて夫人にも話さなかった。またよい機会もなくて院に故人の心をお伝えすることもまだ果たさなかった。大将としてはまたそれを話し出した時に秘密の全貌《ぜんぼう》の見られることも願っているのであるから好機は容易に見いだせないのであるらしい。
故大納言の父母は涙の晴れ間もないほど悲しみにおぼれて暮らしているのであって、日のたつ数もわからなかった。法事などの用意も子息たちや婿君たちの手でするばかりであった。供養する経巻や仏像も二男の左大弁が主になって作らせていた。七日七日の誦経《ずきょう》の日が次々来るたびに、その注意を子息たちがすると、
「もういっさい何も聞かせないようにしてくれ。あれに関した話を聴《き》けばまた悲しみが湧《わ》くばかりだから、かえってあれの行く道を妨げることになる」
と言うだけで、大臣も死んだ人のようになっていた。
一条の宮はまして終わりの病床に見ることもおできにならないままで良人《おっと》を死なせておしまいになったというお悲しみもあって、その後の日の重なるにつけて広いお邸《やしき》はますます寂しいものになって、お召使いの人たちも減っていくばかりであった。大納言の恩顧を受けていた人たちだけは、故人の未亡人の宮に今も敬意を表しに来ることを忘れなかった。愛していた鷹《たか》狩りの鷹とか、馬とかを預かっていた侍たちはたよる所を失ったように力を落としながらも寂しい姿で出仕しているのがお目にはいったりすることなども宮のお心を悲しくさせた。手|馴《な》らしていた居間の道具類、始終|弾《ひ》いていた琵琶《びわ》、和琴《わごん》などの、今は絃《いと》の張られていないものなども御覧になるのが苦しかった。庭の木立ちがけむり、時を忘れずに花の咲こうとするのをおながめになっていて寂しかった。女房たちも皆喪服姿になっていて、あらゆるものから受ける印象が物哀れであったある日の昼ごろに、高い前駆の声がしてお邸《やしき》の門にとまった車があった。
「ぼんやりしていますとお亡《な》くなりになった殿様がおいでになったのかと思いますよ」
と言って泣く女房もあった。それは左大将が訪問して来たのであった。まず訪問の意を通じて来た。いつものように大納言の弟の左大弁とか、参議とかの来訪したのかと邸の人は思っ
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