悪くなってきているのに」
こう言って、宮はそのまま横におなりになった。
「この端書《はしが》きがあまりに身にしむ文章なんでございますもの」
小侍従は衛門督の手紙を拡《ひろ》げた。ほかの女房たちが近づいて来た気配《けはい》を聞いて、手でお几帳《きちょう》を宮のおそばへ引き寄せて小侍従は去った。宮のお胸がいっそうとどろいている所へ院までも帰っておいでになったために、手紙をよくお隠しになる間がなくて、敷き物の下へはさんでお置きになった。二条の院へ今夜になれば行こうと院はお思いになり、そのことを宮へお言いになるのであった。
「あなたはたいしたことがないようですから、あちらはまだあまりにたよりないようなのを見捨てておくように思われても、今さらかわいそうですから、また見に行ってやろうと思います。中傷する者があっても、あなたは私を信じておいでなさいよ。また忠実な良人《おっと》になる日が必ずありますよ」
これまではこんな時にも、子供めいた冗談《じょうだん》などをお言いになって、朗らかにしている方なのであったが、非常にめいっておしまいになり、院のほうへ顔を向けようともされないのを、内にいだく嫉妬《しっと》の影がさしているとばかり院はお思いになった。昼の座敷でしばらくお寝入りになったかと思うと、蜩《ひぐらし》の啼《な》く声でお目がさめてしまった。
「ではあまり暗くならぬうちに出かけよう」
と言いながら院がお召しかえをしておいでになると、
「『月待ちて』(夕暮れは道たどたどし月待ちて云々《うんぬん》)とも言いますのに」
若々しいふうで宮がこうお言いになるのが憎く思われるはずもない。せめて月が出るころまででもいてほしいとお思いになるのかと心苦しくて、院はそのまま仕度《したく》をおやめになった。
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夕露に袖《そで》濡《ぬ》らせとやひぐらしの鳴くを聞きつつ起きて行くらん
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幼稚なお心の実感をそのままな歌もおかわいくて、院は膝《ひざ》をおかがめになって、
「苦しい私だ」
と歎息《たんそく》をあそばされた。
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待つ里もいかが聞くらんかたがたに心騒がすひぐらしの声
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などと躊躇《ちゅうちょ》をあそばしながら、無情だと思われることが心苦しくてなお一泊してお行きになることにあそばされた。さすがにお心は落ち着かずに、物思いの起こる御様子で晩饗《ばんさん》はお取りにならずに菓子だけを召し上がった。
まだ朝涼《あさすず》の間に帰ろうとして院は早くお起きになった。
「昨日の扇をどこかへ失ってしまって、代わりのこれは風がぬるくていけない」
とお言いになりながら、昨日のうたた寝に扇をお置きになった場所へ行ってごらんになったが、立ち止まって目をお配りになると、敷き物のある一所の端が少し縒《よ》れたようになっている下から、薄緑の薄様《うすよう》の紙に書いた手紙の巻いたのがのぞいていた。何心なく引き出して御覧になると、それは男の手で書かれたものであった。紙の匂《にお》いなどの艶《えん》な感じのするもので、骨を折った巧妙な字で書かれてあった。二重ねにこまごまと書いたのをよく御覧になると、それは紛れもない衛門督《えもんのかみ》の手跡であった。院のお座の所で鏡をあけてお見せしている女房は御自分の御用の手紙を見ておいでになるものと思っていたが、小侍従[#「小侍従」は底本では「小待従」]がそれを見た時、手紙が昨日の色であることに気がついた。胸がぶつぶつと鳴り出した。粥《かゆ》などを召し上がる院のほうを小侍従はもう見ることもできなかった。まさかそうではあるまい、そんな運命の悪戯《いたずら》が不意に行なわれてよいものか、宮はお隠しになったはずであると小侍従は努めて思おうとしている。宮は何もお知りにならずになお眠っておいでになるのである。こんな物を取り散らしておいて、それを自分でない他人が発見すればどうなることであろうとお思いになると、その人が軽蔑《けいべつ》されて、これであるから始終自分はあぶながっていたのである。あさはかな性格はついに堕落を招くに至ったのであると院は解釈された。
お帰りになったので、女房たちがあらかた宮のお居間から去った時に、小侍従が来て、
「昨日の物はどうなさいました。今朝《けさ》院が読んでいらっしゃいましたお手紙の色がよく似ておりましたが」
と宮へ申し上げた。はっとお思いになって宮はただ涙だけが流れに流れる御様子である。おかわいそうではあるがふがいない方であると小侍従は見ていた。
「どこへお置きになったのでございますか。あの時だれかが参ったものですから、秘密がありそうに思われますまいと、それほどのことは何でもなかったのですが、よいことをしておりませんと心がとがめまして、私は退《の》いて行ったのでございますが、院がお座敷へお帰りになりましたまでにはちょっと時間があったのでございますもの、お隠しあそばしたろうと安心をしておりました」
「それはね、私が読んでいた時にはいっていらっしゃったものだから、どこへしまうこともできずに下へはさんでおいたのをそのまま忘れたの」
こう伺った小侍従は、この場合の気持ちをどう表現すればよいかも知らなかった。そこへ行って見たが手紙のあるはずもない。
「たいへんでございますね。あちらも非常に恐れておいでになりまして、毛筋ほどでも院のお耳にはいることがあったら申し訳がないと言っておいでになりましたのに、すぐもうこんなことができたではございませんか。全体御幼稚で、男性に対して何の警戒もあそばさなかったものですから、長い年月をかけた恋とは申しながら、こうまで進んだ関係になろうとはあちらも考えておいでにならなかったことでございますよ。だれのためにもお気の毒なことをなさいましたね」
と無遠慮に小侍従は言う。お若い御主人を気安く思って礼儀なしになっているのであろう。宮はお返辞もあそばさないで泣き入っておいでになった。御気分がお悪いばかりのようでなく、少しも物を召し上がらないのを見て、
「こんなにもお苦しそうでいらっしゃるのに、それを捨ててお置きになって、もうすっかり快《よ》くなっておいでになる奥様の御介抱を一所懸命になさらなければならないとはね」
と乳母《めのと》たちは恨めしがった。
院はお帰りになってから、まだ不審のお晴れにもならぬ今朝の手紙をよく調べて御覧になった。女房のうちであの中納言に似た字を書く女があるのではないかという疑いさえお持ちになったのであるが、言葉づかいは明らかに男性であって、他の者の書くはずのないことが内容になってもいた。昔からの恋がようやく遂げられたのではあるが、なお苦しい思いに悩み続けていることが、文学的に見ておもしろく書かれてあって、同情は惹《ひ》くが、こんな関係で書きかわす手紙には人目に触れた時の用意がかねてなければならぬはずで、露骨に一目瞭然《いちもくりょうぜん》に秘密を人が悟るようなことはすべきでないものをと、院はお思いになり、りっぱな男ではあるが、こうした関係の女への手紙の書き方を知らない、落ち散ることも思って、昔の日の自分はこれに類する場合も文章は簡単にして書き紛らしたものであるが、そこまでの細心な注意はできないものらしいと、衛門督《えもんのかみ》を軽蔑《けいべつ》あそばされるのであった。それにしても宮を今後どうお扱いすればよいであろうか、妊娠もそうした不純な恋の結果だったのである。情けないことである。人から言われたことでもなく、直接に証拠も見ながら、以前どおりにあの人を愛することは、自分のことながら不可能らしい。一時的の情人として初めから重くなどは思っていない相手さえ、ほかの愛人を持っていることを知っては不愉快でならぬものであるが、これはそうした相手でもない自分の妻である。無礼な男である。お上《かみ》の後宮と恋の過失に陥る者は昔からあったが、それとこれとは問題が違う。宮仕えは男女とも一人の君主にお仕えするのであって、同輩と見る心から友情が恋となって不始末を起こす結果も作られるのである。女御《にょご》や更衣《こうい》といってもよい人格の人ばかりがいるわけではないから、浮き名を流す者はあっても、破綻《はたん》を見せない間は宮仕えを辞しもせずしていて、批難すべきことも起こったであろうが、自分の宮に対する態度は第一の妻としてのみ待遇してきたではないか、心ではより多く愛する人をもさしおいて、最大級の愛撫《あいぶ》を加えていた自分を裏切っておしまいになるようなことと、そんなことは同日に論ずべきでない、これは罪深いことではないかと反感のお起こりになる院でおありになった。侍している君主のほうでもただ一通りの後宮の女性と御覧になるだけで、御愛情に接することもないような不幸な人に、異性の持つ友情が恋愛にも進んでゆけば、あるまじいこととは知りながらも、苦しむ男に一言の慰めくらいは書き送ることになり、相互の間に恋愛が成長してしまう結果を見るような間柄で犯す罪には十分同情してよい点もあるが、自分のことながらも、あの男くらいに比べて思い劣りされるほどの無価値な者でないと思うがと、院は宮を飽き足らずお思いになるのであったが、またこの問題はほかへ知らせてはならぬと思うことで御|煩悶《はんもん》もされた。父帝もこんなふうに自分の犯した罪を知っておいでになって知らず顔をお作りになったのではなかろうか、考えてみれば恐ろしい自分の過失であったと、御自身の過去が念頭に浮かんできた時、恋愛問題で人を批難することは自分にできないのであると思召《おぼしめ》された。
素知らぬふりはしておいでになるが、物思わしいふうは他からもうかがわれて、夫人は危い命を取りとめた自分をお憐《あわれ》みになる心から、こちらへはお帰りになったものの、六条院の宮をお思いになると心苦しくてならぬ煩悶がお起こりになるのであろうと解釈していた。
「私はもう恢復《かいふく》してしまったのでございますのに、宮様のお加減のお悪い時にお帰りになってお気の毒でございます」
「そう。少し悪い御様子だけれど、たいしたことでないのだから安心して帰って来たのですよ。宮中からはたびたび御使《みつか》いがあったそうだ。今日もお手紙をいただいたとかいうことです。法皇の特別なお頼みを受けておられるので、お上《かみ》もそんなにまで御関心をお持ちになるのですね。私が冷淡であればあちらへもこちらへも御心配をかけて済まない」
院が歎息《たんそく》をされると、
「宮中への御遠慮よりも、宮様御自身が恨めしくお思いになるほうがあなたの御苦痛でしょう。宮様はそれほどでなくてもおそばの者が必ずいろいろなことを言うでしょうから、私の立場が苦しゅうございます」
などと女王《にょおう》は言う。
「私の愛しているあなたにとって、あちらのことは迷惑千万に違いないが、それをあなたは許して、つまらない者の感情をまで思いやってくれる寛大な愛に比べて、私のはただお上が悪くお思いにならないかという点だけで苦労をしているのは、あさはかな愛の持ち主というべきですね」
微笑をしてお言い紛らわしになる。
「六条院へはあなたが快くなった時にいっしょに帰ればいいのですよ。宮の御訪問をするのもそれからあとのことです」
そうきめておいでになるように仰せられた。
「私は静かな独棲《ひとりず》みというものもしてみとうございますから、あちらへおいでになって、宮様のお心のお慰みになりますまでずっといらっしゃい」
夫人からこんな勧めを聞いておいでになるうちに日数がたった。
院のおいでにならぬ間の長いことで今までは院をお恨みにもなった宮でおありになるが、今はその一部を自身の罪がしからしめているのであるということをお知りになって、しまいに法皇のお耳へもはいったならどう思召《おぼしめ》すことであろうと、生きておいでになることすらも恐ろしくばかりお思われになるのであった。お逢《あ》いしたいとしきりに衛門督《えもんのかみ》は言ってくるが、小
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