てがいやなものに思われるとお考えになり、あれは他人がだれも聞かぬ夫婦の間の話の中にただ少し言ったことに過ぎなかったのにと、そんなことをお思い出しになると、いよいよ愛欲世界がうるさくお考えられになるのであった。ぜひ尼になりたいと夫人が望むので、頭の頂の髪を少し取って、五戒だけをお受けさせになった。戒師が完全に仏の戒めを守る誓いを、仏前で尊い言葉で述べる時に、院は体面もお忘れになり、夫人に寄り添って涙を拭《ぬぐ》いつつ夫人とともに仏を念じておいでになったのを見ると、聡明《そうめい》な貴人も御愛妻の病に仏へおすがりになる心は凡人に変わらないことがわかった。どんな方法を講じて夫人の病を救い、長く生命《いのち》を保たせようかと夜昼お歎《なげ》きになるために、院のお顔にも少し痩《や》せが見えるようになった。五月などはまして気候が悪くて病夫人の容体がさわやいでいくとも見えなかったが、以前よりは少しいいようであった。しかもまだ苦しい日々が時々夫人にあった。院は物怪の罪を救うために、日ごとに法華経《ほけきょう》一巻ずつを供養させておいでになった。そのほか何かと宗教的な営みを多くあそばされた。病床のかたわらで不断の読経《どきょう》もさせておいでになるのであって、声のいい僧を選んでそれにはあてておありになった。一度現われて以来おりおり出て物怪は悲しそうなことを言うのであって、全然|退《の》いては行かないのである。暑い夏の日になっていよいよ病夫人の衰弱ははげしくなるばかりであるのを院は歎き続けておいでになった。病に弱っていながらも院のこの御様子を夫人は心苦しく思い、自分の死ぬことは何でもないがこんなにお悲しみになるのを知りながら死んでしまうのは思いやりのないことであろうから、その点で自分はまだ生きるように努めねばならぬと、こんな気が起こったころから、米湯《おもゆ》なども少しずつは取ることになったせいか、六月になってからは時々頭を上げて見ることもできるようになった。珍しくうれしくお思いになりながら、なお院は御不安で六条院へかりそめに行って御覧になることもなかった。
 姫宮はあの事件があってから煩悶《はんもん》を続けておいでになるうちに、お身体《からだ》が常態でなくなって行った。御病気のようにお見えになるが、それほどたいしたことではないのである。六月になってからはお食慾《しょくよく》が減退して
前へ 次へ
全64ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング