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「もりにけるきくだの関の河口の浅きにのみはおはせざらなん
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長い年月に堆積《たいせき》した苦悩と、今夜の酒の酔いで私はもう何もわからなくなった」
と酔いに託して帳台の内の人になった。宰相中将は夜の明けるのも気がつかない長寝をしていた。女房たちが気をもんでいるのを見て、大臣は、
「得意になった朝寝だね」
と言っていた。そしてすっかり明るくなってから源中将は帰って行った。この中将の寝起き姿を見た人は美しく思ったことであろう。
第一夜の翌朝の手紙も以前の続きで忍んで送られたのであるが、はばかる必要のない日になって、かえって雲井の雁が返事の書けないふうであるのを、蓮葉《はすっぱ》な女房たちは肱《ひじ》を突き合って笑っている所へ大臣が出て来て手紙を読んでみた。雲井の雁はますます羞恥《しゅうち》に堪えられなくなった。
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やはり昔と同じように冷ややかなあなたに逢っていよいよ自分が哀れな者に思われるのですが、おさえられぬ恋からまたこの手紙を書くのです。
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咎《とが》むなよ忍びにしぼる手もたゆみ今日あらはるる袖《そで》のしづくを
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などと手紙はなれなれしく書いてあった。大臣は笑顔《えがお》をして、
「字が非常に上手《じょうず》になったね」
などと言っていることも昔とはたいした変わりようである。返事の歌を詠《よ》みにくそうにしている娘を見て、
「どうしたというものだ。見苦しい」
と言って、雲井の雁が父をはばかる気持ちも察して大臣は去ってしまった。手紙の使いは派手《はで》な纏頭《てんとう》を得た。そして頭中将が饗応《きょうおう》の役を勤めたのであった。始終隠して手紙を届けに来た人は、はじめて真人間として扱われる気がした。これは右近《うこん》の丞《じょう》で宰相中将の手もとに使っている男であった。
源氏も内大臣邸であった前夜のことを知った。宰相中将が平生よりも輝いた顔をして出て来たのを見て、
「今朝《けさ》はどうしたか、もう手紙は書いたか。聡明《そうめい》な人も恋愛では締まりのないことをするようにもなるものだが、最初の関係を尊重して、しかもあくせくとあせりもせず自然に解決される時を待っていた点で、平凡人でないことを認めるよ。内大臣があまりに強硬な態度をとり過ぎて、ついにはすっかり負けて出たということで世間は何かと評をするだろう。しかしあまり優越感を持ち過ぎて慢心的に放縦なほうへ転向することのないようにしなくてはならない。今度の態度は寛大であっても、大臣の性格は、生一本でなくて気むずかしい点があるのだからね」
などとまた源氏は教訓した。円満な結果を得て、宰相中将につりあいのよい妻のできたことで源氏は満足しているのである。宰相中将は子のようにも見えなかった。少し年上の兄というほどに源氏は見えるのである。別々に見る時は同じ顔を写し取ったように思われる中将と源氏の並んでいるのを見ると、二人の美貌《びぼう》には異なった特色があった。源氏は薄色の直衣《のうし》の下に、白い支那《しな》風に見える地紋のつやつやと出た小袖《こそで》を着ていて、今も以前に変わらず艶《えん》に美しい。宰相中将は少し父よりは濃い直衣に、下は丁字《ちょうじ》染めのこげるほどにも薫物《たきもの》の香を染《し》ませた物や、白やを重ねて着ているのが、顔をことさら引き立てているように見えた。今日は御所からもたらされて灌仏《かんぶつ》が六条院でもあることになっていたが、導師の来るのが遅くなって、日が暮れてから各夫人付きの童女たちが見物のために南の町へ送られてきて、それぞれ変わった布施《ふせ》が夫人たちから出されたりした。御所の灌仏の作法と同じようにすべてのことが行なわれた。殿上役人である公達《きんだち》もおおぜい参会していたが、そうした人たちもかえって六条院でする作法のほうを晴れがましく考えられて、気おくれが出るふうであった。宰相中将は落ち着いてもいられなかった。化粧をよくして身なりを引き繕って新婦の所へ出かけるのであった。情人として扱われてはいないが、少しの関係は持っている若い女房などで恨めしく思っているのもあった。苦難を積んで護《まも》って来た年月が背景になっている若夫婦の間には水が洩《も》るほどの間隙《かんげき》もないのである。内大臣も婿にしていよいよ宰相中将の美点が明瞭《めいりょう》に見えて非常に大事がった。負けたほうは自分であると意識することで大臣の自尊心は傷つけられたのであるが、中将の娘に対する誠実さは、今までだれとの結婚談にも耳をかさず独身で通して来た点でも認められると思うことで、不満の償われることは十分であった。女御《にょご》よりもかえって雲
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