、東宮は待ち遠しく思召す御様子であったから、四月に参ることに定めた。姫君の手道具類なども、もとからあるのにまた新しく作り添えて、源氏自身が型を考えたり、図案をこしらえたりしては専門家の名人を集めて、美術的な製作を命じていた。草紙の箱というような物に入れる草紙で、いずれは製本もさせて書物になるようなものを源氏は選んでいた。故人で、書道のほうの大家と言われている人たちの書いた物も源氏のところにはたくさんあった。
「すべてのことは昔より悪くなっていく末世ではあっても、仮名の字だけは、どこまでおもしろくなっていくかと思われるほど、近ごろのほうがよくなった。昔の仮名は正確ではあるが、融通がきかないで、変化の妙がなく単調だ。巧妙な仮名を書く人は近代になってふえたが、私も仮名を習うのに熱心だったころ、無難な仮名字を手本にいろいろ集めたものだが、中宮の母君の御息所《みやすどころ》が何ともなしに書かれた一行か二行の字が手にはいって、最上の仮名字はこれだと心酔してしまったものです。それがもとになって浮き名を立てることになり、私との関係をにがい経験だったように思って、くやしがったままで亡《な》くなられたが、必ずしもそうではなかったのだ。今は中宮をお援《たす》けしていることで、聡明《そうめい》な人だったから、あの世ででも私の誠意を認めておいでになることだろう。中宮のお字はきれいなようだけれど才気が少ない」
と源氏は夫人にささやいていた。
「入道の中宮様は最上の貴婦人らしい品のある字をお書きになったが、弱い所があって、はなやかな気分はない。院の尚侍《ないしのかみ》は現代の最もすぐれた書き手だが、奔放すぎて癖が出てくる。しかし、ともかくも院の尚侍と前斎院と、あなたをこの草紙の書き手に擬していますよ」
源氏から認められたことで、夫人は、
「そんな方たちといっしょになすっては恥ずかしくてなりませんよ」
と言っていた。
「謙遜《けんそん》をしすぎますよ。柔らかな調子のとてもいい所がある。漢字は上手《じょうず》に書けますが、仮名には時々力の抜けた字の混じる欠点はありますね」
などとも源氏は言っていて、書かない無地の草紙もまた何帳か新しく綴《と》じさせた。表紙や紐《ひも》などを細かく精選したことは言うまでもない。
「兵部卿《ひょうぶきょう》の宮とか左衛門督《さえもんのかみ》とかにもお頼みしよう。私も一冊書く。気どっておられても私といっしょに書くことは晴れがましいだろう」
と源氏は自讃《じさん》していた。墨も筆も選んだのを添えて、いつもそうした交渉のある所々へ執筆を源氏は頼んだのであったが、だれもこの委嘱に応じるのを困難なことに思って、その中には辞退してくる人もあったが、そんな時に源氏は再三懇切な言葉で執筆を望んだ。朝鮮紙の薄様《うすよう》風な非常に艶《えん》な感じのする紙の綴《と》じられた帳を源氏は見て、
「風流好きな青年たちにこれを書かせてみよう」
と言った。宰相中将、式部卿《しきぶきょう》の宮の兵衛督《ひょうえのかみ》、内大臣家の頭《とうの》中将などに、蘆手《あしで》とか、歌絵とか、何でも思い思いに書くようにと源氏は言ったのであった。若い人たちは競って製作にかかった。
いつもこんな時にするように、源氏は寝殿のほうへ行っていて書いた。花の盛りが過ぎて淡い緑色がかった空のうららかな日に、源氏は古い詩歌を静かに選びながら、みずから満足のできるだけの字を書こうと、漢字のも仮名のも熱心に書いていた。その部屋《へや》には女房も多くは置かずにただ二、三人、墨をすらせたり、古い歌集の歌を命ぜられたとおりに捜し出したりするのに役にたつような者を呼んであった。部屋の御簾《みす》は皆上げて、脇息《きょうそく》の上に帳を置いて、縁に近い所でゆるやかな姿で、筆の柄を口にくわえて思案する源氏はどこまでも美しかった。白とか赤とかきわだった片《ひら》は、筆を取り直して特に注意して書いたりする態度なども、心のある者は敬意を払わずにいられないことであった。兵部卿の宮がおいでになったということを聞いて源氏は驚いて上に直衣《のうし》を着たり、座敷へさらに褥《しとね》を取り寄せたりしてお迎えした。この宮もきれいなお姿で、階段を艶《えん》に上っておいでになるのを、女房たちは御簾《みす》からのぞいていた。互いに正しい礼儀で御|挨拶《あいさつ》がかわされた。
「引きこもっていますのが苦しいほど退屈なおりからでしたよ。よくおいでくださいました」
と源氏は言っていた。お頼まれになった書き物を宮は持っておいでになったのである。すぐこの席で源氏は拝見した。非常に巧妙な字というのではないが、一部分に澄み切った芸術味の見えるものだった。歌も常識的なものは避けて、変わったものが選ばれてあって、ただ三行ほど
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング