なかった物思いの加わった気がしたものの、美しい玉鬘《たまかずら》と、廃人同様であった妻を比べて思うと、やはり何があっても今の幸福は大きいと感ぜられた。それきり夫人のほうへ大将は何とも言ってやらなかった。侮辱的なあの日の待遇がもたらした反動的な現象のように、冷淡にしていると宮邸の人をくやしがらせていた。紫の女王《にょおう》もその情報を耳にした。
「私までも恨まれることになるのがつらい」
と歎《なげ》いているのを源氏はかわいそうに思った。
「むつかしいものですよ。自分の思いどおりにもできない人なのだから、この問題で陛下も御不快に思召《おぼしめ》すようだし、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮も恨んでおいでになると聞いたが、あの方は思いやりがあるから、事情をお聞きになって、もう了解されたようだ。恋愛問題というものは秘密にしていても真相が知れやすいものだから、結局は私が罪を負わないでもいいことになると思っている」
とも言っていた。
大将のもとの夫人とのそうしたいきさつはいっそう玉鬘《たまかずら》を憂鬱《ゆううつ》にした。大将はそれを哀れに思って慰めようとする心から、尚侍《ないしのかみ》として宮中へ出ることをこれまでは反対をし続けたのであるが、陛下がこの態度を無礼であると思召すふうもあるし、両大臣もいったん思い立ったことであるから、自分らとしていえば公職を持つ女の良人《おっと》である人も世間にあることであり、構わないことと考えて宮中へ出仕することに賛成すると言い出したので、春になっていよいよ尚侍の出仕のことが実現された。男踏歌《おとことうか》があったので、それを機会として玉鬘は御所へ参ったのである。すべての儀式が派手《はで》に行なわれた。二人の大臣の勢力を背景にしている上に大将の勢いが添ったのであるから、はなばなしくなるのが道理である。源宰相中将は忠実に世話をしていた。兄弟たちも玉鬘に接近するよい機会であると、誠意を見せようとして集まって来て、うらやましいほどにぎわしかった。承香殿《じょうこうでん》の東のほう一帯が尚侍の曹司《ぞうし》にあてられてあった。西のほう一帯には式部卿《しきぶきょう》の宮の王女御《おうにょご》がいるのである。一つの中廊下だけが隔てになっていても、二人の女性の気持ちははるかに遠く離れていたことであろうと思われる。後宮の人たちは競い合って、ますます宮廷を洗練されたものにしていくようなはなやかな時代であった。あまりよい身分でない更衣《こうい》などは多くも出ていなかった。中宮《ちゅうぐう》、弘徽殿《こきでん》の女御、この王女御、左大臣の娘の女御などが後宮の女性である。そのほかに中納言の娘と宰相の娘とが二人の更衣で侍していた。踏歌《とうか》は女御がたの所へ実家の人がたくさん見物に来ていた。これは御所の行事のうちでもおもしろいにぎやかなものであったから、見物の人たちも服装などに華奢《かしゃ》を競った。東宮の母君の女御も人に負けぬ派手《はで》な方であった。東宮はまだ御幼年であったから、そのほうの中心は母君の女御であった。御前《ごぜん》、中宮、朱雀《すざく》院へまわるのに夜が更《ふ》けるために、今度は六条院へ寄ることを源氏が辞退してあった。朱雀院から引き返して、東宮の御殿を二か所まわったころに夜が明けた。ほのぼのと白む朝ぼらけに、酔い乱れて「竹河《たけがわ》」を歌っている中に、内大臣の子息たちが四、五人もいた。それはことに声がよく容貌《ようぼう》がそろってすぐれていた。童形《どうぎょう》である八郎君《はちろうぎみ》は正妻から生まれた子で、非常に大事がられているのであったが、愛らしかった。大将の長男と並んでいるこの二人を尚侍も他人とは思えないで目がとどめられた。宮中の生活に馴《な》れた女御たちの曹司よりも、新しい尚侍の見物する御殿の様子のほうがはなやかで、同じような物ではあるが、女房の袖口《そでぐち》の重ねの色目も、ここのがすぐれたように公達《きんだち》は思った。尚侍自身も女房たちもこうした、悪いことが悪く見え、よいことはことによく見える御所の中の生活をしばらくは続けてみたいと思っていた。どちらでも纏頭《てんとう》に出すのは定《きま》った真綿であるが、それらなどにも尚侍のほうのはおもしろい意匠が加えられてあった。こちらはちょっと寄るだけの所なのであるが、はなやかな空気のうかがわれる曹司であったから、公達は晴れがましく思い、緊張した踏歌をした。饗応《きょうおう》の法則は越えないようにして、ことに手厚く演者はねぎらわれたのであった。それは大将の計らいであった。大将は禁中の詰め所にいて、終日尚侍の所へ、
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退出を今夜のことにしたいと思います。出仕した以上はなおとどまっていたいと、あなたが考えるであろう宮仕えというものは、私にとって苦痛です。
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こんなことばかりを書いて送るのであったが、玉鬘《たまかずら》は何とも返事を書かない。女房たちから、
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源氏の大臣が、あまり短時日でなく、たまたま上がったのであるから、陛下がもう帰ってもよいと仰せになるまで上がっていて帰るようにとおっしゃいましたことですから。それに今晩とはあまり御無愛想なことになりませんかと私たちは存じます。
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と大将の所へ書いて来た。大将は尚侍《ないしのかみ》を恨めしがって、
「あんなに言っておいたのに、自分の意志などは少しも尊重されない」
と歎息《たんそく》をしていた。
兵部卿の宮は御前の音楽の席に、その一員として列席しておいでになったのであるが、お心持ちは平静でありえなかった。尚侍の曹司ばかりがお思われになってならないのであった。堪えがたくなって宮は手紙をお書きになった。大将は自身の直廬《じきろ》のほうにいたのである。宮の御消息であるといって使いから女房が渡されたものを、尚侍はしぶしぶ読んだ。
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深山木《みやまぎ》に翅《はね》うち交《か》はしゐる鳥のまたなく妬《ねた》き春にもあるかな
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さえずる声にも耳がとどめられてなりません。
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とあった。気の毒なほど顔を赤めて、何と返事もできないように尚侍が思っている所へ帝《みかど》がおいでになった。明るい月の光にお美しい竜顔《りゅうがん》がよく拝された。源氏の顔をただそのまま写したようで、こうしたお顔がもう一つあったのかというような気が玉鬘にされるのであった。源氏の愛は深かったがこの人が受け入れるのに障害になるものがあまりに多かった。帝との間にはそうしたものはないのである。帝はなつかしい御様子で、お志であったことが違ってしまったという恨みをお告げになるのであったが、尚侍は恥ずかしくて顔の置き場もない気がした。顔を隠して、お返辞もできないでいると、
「たよりない方だね。好意を受けてもらおうと思ったことにも無関心でおいでになるのですね。何にもそうなのですね。あなたの癖なのですね」
と仰せになって、
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「などてかくはひ合ひがたき紫を心に深く思ひ初《そ》めけん
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濃くはなれない運命だろうか」
若々しくておきれいな所は源氏と同じである。源氏と思ってお話を申し上げようと尚侍は思った。陛下が好意と仰せられるのは、去年尚侍になって以来、まだ勤労らしいことも積まずに、三位《さんみ》に玉鬘を陞叙《しょうじょ》されたことである。紫は三位の男子の制服の色であった。
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「いかならん色とも知らぬ紫を心してこそ人はそめけれ
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ただ今から改めて御恩を思います」
と尚侍が言うと、帝は微笑をあそばして、
「その今からということがだめになったのだからね。私に抗議する人があれば理論が聞きたい。私のほうが先にあなたを愛していたのだから」
と恨みをお告げになる。言葉の遊戯ではなく皆まじめに思召《おぼしめ》すらしいのであったから、尚侍は困ったことであると思った。自分が陛下の愛に感激しているほんとうの気持ちなどはお見せすべきでない。帝といえども男性に共通した弱点は持っておいでになるのであるからと考えて、玉鬘《たまかずら》はただきまじめなふうで黙って侍していた。帝はもう少し突込んだ恋の話もしたく思召してここへおいでになったのであるが、それがお言い出せにならないで、そのうち馴《な》れてくるであろうからと見ておいでになった。大将は帝が曹司へおいでになったと聞いて危険がることがいよいよ急になって、退出を早くするようにとしきりに催促をしてきた。もっともらしい口実も作って実父の大臣を上手《じょうず》に賛成させ、いろいろと策動した結果、ようやく今夜退出する勅許を得た。
「今夜あなたの出て行くのを許さなければ、懲りてしまって、これきりあなたをよこしてくれない人があるからね。だれよりも先にあなたを愛した人が、人に負けて、勝った男の機嫌《きげん》をとるというようなことをしている。昔の何とかいった男(時平に妻を奪われた平貞文《たいらのさだふみ》の歌、昔せしわがかねごとの悲しきはいかに契りし名残《なごり》なるらん)のように、まったく悲観的な気持ちになりますよ」
と仰せになって、真底《しんそこ》からくやしいふうをお見せになった。聞こし召したのに数倍した美貌《びぼう》の持ち主であったから、初めにそうした思召しはなくっても、この人を御覧になっては公職の尚侍としてだけでお許しにならなかったであろうと思われるが、まして初めの事情がそうでもなかったのであったから、帝は妬《ねた》ましくてならぬ御感情がおありになって、最初の求婚者の権利を主張あそばしたくなるのを、あさはかな恋と思われたくないと御自制をあそばして、熱情を認めさせようとしてのお言葉だけをいろいろに下された。こうしてなつけようとあそばす御好意がかたじけなくて、結婚しても自分の心は自分の物であるのに、良人《おっと》にことごとく与えているものでないのにと玉鬘は思っていた。輦車《れんしゃ》が寄せられて、内大臣家、大将家のために尚侍の退出に従って行こうとする人たちが、出立ちを待ち遠しがり、大将自身もむつかしい顔をしながら、人々へ指図《さしず》をするふうにしてその辺を歩きまわるまで帝は尚侍の曹司をお離れになることができなかった。
「近衛《ちかきまもり》過ぎるね。これでは監視されているようではないか」
と帝はお憎みになった。
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九重《ここのへ》に霞《かすみ》隔てば梅の花ただかばかりも匂《にほ》ひこじとや
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何でもない御歌であるが、お美しい帝が仰せられたことであったから、特別なもののように尚侍には聞かれた。
「私は話し続けて夜が明かしたいのだが、惜しんでいる人にも、私の身に引きくらべて同情がされるからお帰りなさい。しかし、どうして手紙などはあげたらいいだろう」
と御心配げに仰せられるのがもったいなく思われた。
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かばかりは風にもつてよ花の枝《え》に立ち並ぶべき匂《にほ》ひなくとも
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と言って、さすがに忘られたくない様子の女に見えるのを哀れに思召しながら、顧みがちに帝はお立ち去りになった。
すぐに大将は自邸へ玉鬘《たまかずら》を伴おうと思っているのであるが、初めから言っては源氏の同意が得られないのを知って、この時までは言わずに、突然、
「にわかに風邪《かぜ》気味になりまして、自宅で養生をしたく存じますが、別々になりましては妻も気がかりでございましょうから」
と穏やかに了解を求めて、大将はそのまま尚侍《ないしのかみ》をつれて帰ったのであった。内大臣は婚家へ娘のにわかな引き取られ方を、形式上不満にも思ったが、小さなことにこだわっていては婿の大将の感情を害することになろうと思って、
「どちらでも私のほうの意志でどうすることもできない娘になっているのですから」
という返事を内
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