子には、だれからも反感を持たれるのに十分な利己主義者らしいところがあった。
大将の妾《しょう》のようにもなっていた木工《もく》の君や中将の君なども、それ相応に大将を恨めしく思っていたが、夫人は普通な精神状態になっている時で、なつかしいふうを見せて泣いていた。
「私を老いぼけた、病的な女だと侮辱なさいますのはごもっともなことですが、そんなお言葉の中に宮様のことをお混ぜになるのを聞きますと、私のような者と親子でおありになるばかりにと思われて宮様がお気の毒でなりません。私はあなたのお噂《うわさ》を聞くことが近ごろ始まったことでも何でもないのですから、悲しみはいたしません」
と言って横向く顔が可憐《かれん》であった。小柄な人が持病のために痩《や》せ衰えて、弱々しくなり、きれいに長い髪が分け取られたかと思うほど薄くなって、しかもその髪はよく梳《す》くこともされないで、涙に固まっているのが哀れであった。一つ一つの顔の道具が美しいのではなくて、式部卿の宮によく似て、全体に艶《えん》なところのある顔を、構わないままにしてあっては、はなやかな、若々しいというような点はこの人に全然見られない。
「宮様のことを軽々しくなど私が言うものですか。人に聞かれても恐ろしいようなことを言うものでない」
などと大将はなだめて、
「私の通って行く所はいわゆる玉の台《うてな》なのだからね。そんな場所へ不風流な私が出入りすることは、よけいに人目を引くことだろうと片腹痛くてね、自分の邸《やしき》へ早くつれて来ようと私は思うのだ。太政大臣が今日の時代にどれだけ勢力のある方だというようなことは今さらなことだが、あのりっぱな人格者の所へ、ここの嫉妬《しっと》騒ぎが聞こえて行くようではあの方に済まない。穏やかに仲よく暮らすように心がけなければならないよ。宮のお邸へあなたが行ってしまったからといっても、私はやはりあなたを愛するだろう。夫婦の形はどうなっても今さら愛のなくなることはないのだが、世間があなたを軽率なように言うだろうし、私のためにも軽々しいことになる。長い間愛し合ってきた二人なのだから、これからも私のためになることをあなたも考えて、世話をし合おうじゃありませんか」
とも言った。
「あなたの冷酷なことがいいことか悪いことか私はもう考えません。何とも思いません。ただ私が健全な女でないことを悲しんでいます。宮様がお案じになって、娘の私の名誉などをたいそうにお考えになったり、御|煩悶《はんもん》をなすったりするのがお気の毒で、私は邸へ帰りたくないと思っています。六条の大臣の奥様は私のために他人ではありません。よそで育ったその人が大人《おとな》になって、養女のために姉の私の良人《おっと》を婿に取ったりするということで宮様などは恨んでいらっしゃるのですが、私はそんなことも思いませんよ。あちらでしていらっしゃることをながめているだけ」
「こんなにあなたはよく筋道の立つ話ができるのだがね。病気の起こることがあって、取り返しもつかないようなことがこれからも起こるだろうと気の毒だね。この問題に六条院の女王《にょおう》は関係していられないのだよ。今でもたいせつなお嬢様のように大臣から扱われていらっしゃる方などが、よそから来た娘のことなどに関心を持たれるわけもないのだからね。まあまったく親らしくない継母《ままはは》様だともいえるね。それだのに恨んだりしていることがお耳にはいっては済まないよ」
などと、終日夫人のそばにいて大将は語っていた。
日が暮れると大将の心はもう静めようもなく浮き立って、どうかして自邸から一刻も早く出たいとばかり願うのであったが、大降りに雪が降っていた。こんな天候の時に家を出て行くことは人目に不人情なことに映ることであろうし、妻が見さかいなしの嫉妬《しっと》でもするのでもあれば自分のほうからも十分に抗争して家を出て行く機会も作れるのであるが、おおように静かにしていられては、ただ気の毒になるばかりであると、大将は煩悶して格子《こうし》も下《お》ろさせずに、縁側へ近い所で庭をながめているのを、夫人が見て、
「あやにくな雪はだんだん深くなるようですよ。時間だってもうおそいでしょう」
と外出を促して、もう自分といることに全然良人は興味を失っているのであるから、とめてもむだであると考えているらしいのが哀れに見られた。
「こんな夜にどうして」
と大将は言ったのであるが、そのあとではまた反対な意味のことを、
「当分はこちらの心持ちを知らずに、そばにいる女房などからいろんなことを言われたりして疑ったりすることもあるだろうし、また両方で大臣がこちらの態度を監視していられもするのだから、間を置かないで行く必要がある。あなたは落ち着いて、気長に私を見ていてください。邸《やしき》へつれて来れば、それからはその人だけを偏愛するように見えることもしないで済むでしょう。今日のように病気が起こらないでいる時には、少し外へ向いているような心もなくなって、あなたばかりが好きになる」
こんなに言っていた。
「家においでになっても、お心だけは外へ行っていては私も苦しゅうございます。よそにいらっしってもこちらのことを思いやっていてさえくだされば私の氷《こお》った涙も解けるでしょう」
夫人は柔らかに言っていた。火入れを持って来させて夫人は良人《おっと》の外出の衣服に香を焚《た》きしめさせていた。夫人自身は構わない着ふるした衣服を着て、ほっそりとした弱々しい姿で、気のめいるふうにすわっているのをながめて、大将は心苦しく思った。目の泣きはらされているのだけは醜いのを、愛している良人の心にはそれも悪いとは思えないのである。長い年月の間二人だけが愛し合ってきたのであると思うと、新しい妻に傾倒してしまった自分は軽薄な男であると、大将は反省をしながらも、行って逢《あ》おうとする新しい妻を思う興奮はどうすることもできない。心にもない歎息《たんそく》をしながら、着がえをして、なお小さい火入れを袖《そで》の中へ入れて香《におい》をしめていた。ちょうどよいほどに着なれた衣服に身を装うた大将は、源氏の美貌《びぼう》の前にこそ光はないが、くっきりとした男性的な顔は、平凡な階級の男の顔ではなかった。貴族らしい風采《ふうさい》である。侍所《さむらいどころ》に集っている人たちが、
「ちょっと雪もやんだようだ。もうおそかろう」
などと言って、さすがに真正面から促すのでなく、主人《あるじ》の注意を引こうとするようなことを言う声が聞こえた。中将の君や木工《もく》などは、
「悲しいことになってしまいましたね」
などと話して、歎《なげ》きながら皆床にはいっていたが、夫人は静かにしていて、可憐なふうに身体《からだ》を横たえたかと見るうちに、起き上がって、大きな衣服のあぶり籠《かご》の下に置かれてあった火入れを手につかんで、良人の後ろに寄り、それを投げかけた。人が見とがめる間も何もないほどの瞬間のことであった。大将はこうした目にあってただあきれていた。細かな灰が目にも鼻にもはいって何もわからなくなっていた。やがて払い捨てたが、部屋じゅうにもうもうと灰が立っていたから大将は衣服も脱いでしまった。正気でこんなことをする夫人であったら、だれも顧みる者はないであろうが、いつもの物怪《もののけ》が夫人を憎ませようとしていることであるから、夫人は気の毒であると女房らも見ていた。皆が大騒ぎをして大将に着がえをさせたりしたが、灰が髪などにもたくさん降りかかって、どこもかしこも灰になった気がするので、きれいな六条院へこのままで行けるわけのものではなかった。大将は爪弾《つまはじ》きがされて、妻に対する憎悪《ぞうお》の念ばかりが心につのった。先刻愛を感じていた気持ちなどは跡かたもなくなったが、現在は荒だてるのに都合のよろしくない時である。どんな悪い影響が自分の新しい幸福の上に現われてくるかもしれないと、大将は夫人に腹をたてながらも、もう夜中であったが僧などを招いて加持《かじ》をさせたりしていた。夫人が上げるあさましい叫び声などを聞いては、大将がうとむのも道理であると思われた。夜通し夫人は僧から打たれたり、引きずられたりしていたあとで、少し眠ったのを見て、大将はその間に玉鬘《たまかずら》へ手紙を書いた。
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昨夜から容体のよろしくない病人ができまして、おりから降る雪もひどく、こんな時に出て行くことはどうかと、そちらへ行くのをやむなく断念することにしましたが、外界の雪のためでもなく、私の身の内は凍ってしまうほど寂しく思われました。あなたは信じていてくださるでしょうが、そばの者が何とかいいかげんなことを忖度《そんたく》して申し上げなかったであろうかと心配です。
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という文学的でない文章であった。
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心さへそらに乱れし雪もよに一人さえつる片敷《かたしき》の袖《そで》
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堪えがたいことです。
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ともあった。白い薄様《うすよう》に重苦しい字で書かれてあった。字は能書であった。大将は学問のある人でもあった。尚侍《ないしのかみ》は大将の来ないことで何の痛痒《つうよう》も感じていないのに、一方は一所懸命な言いわけがしてあるこの手紙も、玉鬘《たまかずら》は無関心なふうに見てしまっただけであるから、返事は来なかった。大将は自宅で憂鬱《ゆううつ》な一日を暮らした。夫人はなお今日も苦しんでいたから、大将は修法《しゅほう》などを始めさせた。大将自身の心の中でも、ここしばらくは夫人に発作のないようにと祈っていた。物怪《もののけ》につかれないほんとうの妻は愛すべき性質であるのを自分は知っているから我慢ができるのであるが、そうでもなかったら捨てて惜しくない気もすることであろうと大将は思っていた。大将は日が暮れるとすぐに出かける用意にかかったのである。大将の服装などについても、夫人は行き届いた妻らしい世話の十分できない人なのである。自分の着せられるものは流行おくれの調子のそろわないものだと大将は不足を言っていたが、きれいな直衣《のうし》などがすぐまにあわないで見苦しかった。昨夜《ゆうべ》のは焼け通って焦げ臭いにおいがした。小袖《こそで》類にもその臭気は移っていたから、妻の嫉妬《しっと》にあったことを標榜《ひょうぼう》しているようで、先方の反感を買うことになるであろうと思って、一度着た衣服を脱《ぬ》いで、風呂《ふろ》を立てさせて入浴したりなどして大将は苦心した。木工《もく》の君は主人《あるじ》のために薫物《たきもの》をしながら言う、
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「一人ゐて焦《こが》るる胸の苦しきに思ひ余れる焔《ほのほ》とぞ見し
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あまりに露骨な態度をおとりになりますから、拝見する私たちまでもお気の毒になってなりません」
袖で口をおおうて言っている木工の君の目つきは大将を十分にとがめているのであったが、主人《あるじ》のほうでは、どうして自分はこんな女などと情人関係を作ったのであろうとだけ思っていた。情けない話である。
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「うきことを思ひ騒げばさまざまにくゆる煙ぞいとど立ち添ふ
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ああした醜態が噂《うわさ》になれば、あちらの人も私を悪く思うようになって、どちらつかずの不幸な私になるだろうよ」
などと歎息《たんそく》を洩《も》らしながら大将は出て行った。中一夜置いただけで美しさがまた加わったように見える玉鬘であったから、大将の愛はいっそうこの一人に集まる気がして、自邸へ帰ることができずにそのままずっと玉鬘のほうにいた。大騒ぎして修法などをしていても夫人の病気は相変わらず起こって大声を上げて人をののしるようなことのある報知を得ている大将は、妻のためにもよくない、自分のためにも不名誉なことが必ず近くにいれば起こることを予想して、怖《おそ》ろしがって近づかないのである。邸《やしき》へ帰る時
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