に成り切っていないところがありましてね、自分は結婚のできない身体《からだ》だとあきらめていますが、かわいそうでも、私どもの力ではどうにもならないのでございます」
と、おとど[#「おとど」に傍点]は言った。
「決して遠慮をなさるには及びませんよ。どんな盲目《めくら》でも、いざりでも私は護《まも》っていってあげます。我輩《わがはい》が人並みの身体に直してあげますよ。肥後一国の神仏は我輩の意志どおりに何事も加勢してくれますからね」
などと監《げん》は誇っていた。結婚の日どりも何日《いつ》ごろというようなことを監が言うと、おとど[#「おとど」に傍点]のほうでは、今月は春の季の終わりで結婚によろしくないというような田舎めいた口実で断わる。縁側から下《お》りて行く時になって、監は歌を作って見せたくなった。やや長く考えてから言い出す。
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「君にもし心たがはば松浦《まつら》なるかがみの神をかけて誓はん
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この和歌は我輩の偽らない感情がうまく表現できたと思います」
と監は笑顔《えがお》を見せた。おとど[#「おとど」に傍点]はすべてのことが調子はずれな田舎武士に、返歌などをする気にはなれないのであったが、娘たちに歌を詠《よ》めと言うと、
「私など、お母さんだってそうでしょう。自失している体《てい》よ」
こう言って聞かない。おとど[#「おとど」に傍点]は興味のない返歌をやっと出まかせふうに言った。
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年を経て祈る心のたがひなばかがみの神をつらしとや見ん
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先刻からの気味悪さにおとど[#「おとど」に傍点]は慄《ふる》え声になっていた。
「お待ちなさい。そのお返事の内容だが」
監《げん》がのっそりと寄って来て、腑《ふ》に落ちぬという顔をするのを見て、おとど[#「おとど」に傍点]は真青《まっさお》になってしまった。娘たちはあんなに言っていたものの、こうなっては気強く笑って出て行った。
「それはね、お嬢様が世間並みの方でないことから、母がこの御縁の成立した時に、恨めしくお思いにならないかということを、もうぼけております母が神様のお名などを入れて、変に詠《よ》んだだけの歌ですよ」
とこじつけて聞かせた。正解したところで求婚者へのお愛想《あいそ》歌なのであるが、
「ああもっとも、もっとも」
とうなずいて、監は、
「技巧が達者なものですね。我輩は田舎者ではあるが賤民じゃないのです。京の人でもたいしたものでないことを我輩は知っている。軽蔑《けいべつ》してはいけませんよ」
と言ったが、もう一首歌を作ろうとして、できなかったのかそのまま帰って行った。次郎がすっかりあちらがたになっているのを家族は憎みながらも、豊後介の助けを求めることが急であった。どうして姫君にお尽くしすればよいか、相談相手はなし、親身の兄弟までが監に反対すると言って、異端者扱いにして自分と絶交する始末である。監の敵になってはこの地方で何一つ仕事はできないだろう、手出しをしてかえって自分から不幸を招きはしまいかと豊後介は煩悶《はんもん》をしたのであるが、姫君が口では何事も言わずにこのことで悲しんでいる様子を見ると、気の毒で、そうなれば死のうと決心している様子が道理に思われ、豊後介は苦しい策をして姫君の上京を助けることにした。妹たちも馴染《なじ》んだ良人《おっと》を捨てて姫君について行くことになった。あてき[#「あてき」に傍点]と言って、夕顔夫人の使っていた童女は兵部《ひょうぶ》の君という女房になっていて、この女たちが付き添って、夜に家を出て船に乗った。大夫《たゆう》の監《げん》はいったん肥後へ帰って四月二十日ごろに吉日を選んで新婦を迎えに来ようとしているうちに、こうして肥前を脱出するのである。姉は子供もおおぜいになっていて同行ができないのである。行く人、残る人が名残《なごり》を惜しんで、また見る機会《おり》のないことを悲しむのであったが、行く人にとっては長い年月をここで送ったのではあっても、見捨てがたいほど心の残るものは何もこの土地になかった。ただ松浦の宮の前の海岸の風光と姉娘と別れることだけがだれにもつらかった。顧みもされた。
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浮島《うきしま》を漕《こ》ぎ離れても行く方やいづくとまりと知らずもあるかな
行くさきも見えぬ波路に船出して風に任する身こそ浮きたれ
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初めのは兵部の作で、あとのは姫君の歌である。心細くて姫君は船でうつ伏しになっていた。こうして逃げ出したことが肥後に知れたなら、負けぎらいな監は追って来るであろうと思われるのが恐ろしくて、この船は早船といって、普通以上の速力が出るように仕かけてある船であったから、ちょうど追い風も得て危ういほどにも早く京をさして走った。響《ひびき》の灘《なだ》も無事に過ぎた。海上生活二、三日ののちである。
「海賊の船なんだろうか、小さい船が飛ぶように走って来る」
などと言う者がある。惨酷《ざんこく》な海賊よりも少弐《しょうに》の遺族は大夫《たゆう》の監《げん》をもっと恐れていて、その追っ手ではないかと胸を冷やした。
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憂《う》きことに胸のみ騒ぐひびきには響の灘も名のみなりけり
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と姫君は口ずさんでいた。川尻《かわじり》が近づいたと聞いた時に船中の人ははじめてほっとした。例の船子《かこ》は「唐泊《からどまり》より川尻押すほどは」と唄《うた》っていた。荒々しい彼らの声も身に沁《し》んだ。豊後介《ぶんごのすけ》はしみじみする声で、愛する妻子も忘れて来たと歌われているとき、その歌のとおりに自分も皆捨てて来た、どうなるであろう、力になるような郎党は皆自分がつれて来てしまった。自分に対する憎悪《ぞうお》の念から大夫の監は彼らに復讐をしないであろうか、その点を考えないで幼稚な考えで、脱出して来たと、こんなことが思われて、気の弱くなった豊後介は泣いた。「胡地妻子虚棄損《こちのさいしをむなしくすつ》」とこう兄の歌っている声を聞いて兵部も悲しんだ。自分のしていることは何事であろう、愛してくれる男ににわかにそむいて出て来たことをどう思っているであろうと、こんなことが思われたのである。京へはいっても自分らは帰って行く邸《やしき》などはない、知人の所といっても、たよって行ってよいほど頼もしい家もない、ただ一人の姫君のために生活の根拠のできていた土地を離れて、空想の世界へ踏み入ろうとする者であると豊後介は考えさせられた。姫君をもどうするつもりでいるのであろうと自身であきれながらも今さらしかたがなくてそのまま一行は京へはいった。九条に昔知っていた人の残っていたのを捜し出して、九州の人たちは足どまりにした。ここは京の中ではあるがはかばかしい人の住んでいる所でもない町である。外で働く女や商人の多い町の中で、悲しい心を抱いて暮らしていたが、秋になるといっそう物事が身に沁《し》んで思われて過去からも、未来からも暗い影ばかりが投げられる気がした。信頼されている豊後介も、京では水鳥が陸へ上がったようなもので、職を求める手蔓《てづる》も知らないのであった。今さら肥前へ帰るのも恥ずかしくてできないことであった。思慮の足りなかったことを豊後介は後悔するばかりであるが、つれて来た郎党も何かの口実を作って一人去り二人去り、九州へ逃げて帰る者ばかりであった。無力な失職者になっている長男に同情したようなことを母のおとど[#「おとど」に傍点]が言うと、
「私などのことは何でもありません。姫君を護《まも》っていることができれば、自分の郎党などは一人もなくなってもいいのですよ。どんなに自分らが強力な豪族になったっても、姫君をああした野蛮な連中に取られてしまえば、精神的に死んでしまったのも同然ですよ」
と豊後介は慰めるのであった。
「神仏のお力にすがればきっと望みの所へ導いてくださるでしょうから、お詣《まい》りをなさるがいいと思います。ここから近い八幡《やわた》の宮は九州の松浦、箱崎《はこざき》と同じ神様なのですから、あちらをお立ちになる時、お立てになった願もありますから、神の庇護で無事に帰京しましたというお礼参りをなさいませ」
と豊後介は言って、姫君に八幡詣《やわたまい》りをさせた。八幡のことにくわしい人に聞いておいて、御師《おし》という者の中に、昔親の少弐が知っていた僧の残っているのを呼び寄せて、案内をさせたのである。
「このつぎには、仏様の中で長谷《はせ》の観音様は霊験のいちじるしいものがあると支那《しな》にまで聞こえているそうですから、お参りになれば、遠国にいて長く苦労をなすった姫君をきっとお憐《あわれ》みになってよいことがあるでしょう」
また豊後介は姫君に長谷詣《はせもう》でを勧めて実行させた。船や車を用いずに徒歩で行くことにさせたのである。かつて経験しない長い路《みち》を歩くことは姫君に苦しかったが、人が勧めるとおりにして、つらさを忍んで夢中で歩いて行った。自分は前生にどんな重い罪障があってこの苦しみに堪えねばならないのであろう、母君はもう死んでおいでになるにしても、自分を愛してくださるならその国へ自分をつれて行ってほしい。しかしまだ生きておいでになるのならお顔の見られるようにしていただきたいと姫君は観音を念じていた。姫君は母の顔を覚えていなかった。ただ漠然《ばくぜん》と親というものの面影を今日《きょう》まで心に作って来ているだけであったが、こうした苦難に身を置いては、いっそう親というものの恋しさが切実に感ぜられるのであった。ようやく椿市《つばいち》という所へ、京を出て四日めの昼前に、生きている気もしないで着いた。姫君は歩行らしい歩行もできずに、しかもいろいろな方法で足を運ばせて来たが、もう足の裏が腫《は》れて動かせない状態になって椿市で休息をしたのである。頼みにされている豊後介と、弓矢を持った郎党が二人、そのほかは僕《しもべ》と子供侍が三、四人、姫君の付き添いの女房は全部で三人、これは髪の上から上着を着た壺装束《つぼしょうぞく》をしていた。それから下女が二人、これが一行で、派手《はで》な長谷詣りの一行ではなかった。寺へ燈明料を納めたりすることをここで頼んだりしているうちに日暮れ時になった。この家の主人《あるじ》である僧が向こうで言っている。
「私には今夜泊めようと思っているお客があったのだのに、だれを勝手に泊めてしまったのだ、物知らずの女どもめ、相談なしに何をしたのだ」
怒《おこ》っているのである。九州の一行は残念な気持ちでこれを聞いていたが、僧の言ったとおりに参詣者の一団が町へはいって来た。これも徒歩で来たものらしい。主人らしいのは二人の女で召使の男女の数は多かった。馬も四、五匹引かせている。目だたぬようにしているが、きれいな顔をした侍などもついていた。主人の僧は先客があってもその上にどうかしてこの連中を泊めようとして、道に出て頭を掻《か》きながら、ひょこひょこと追従《ついしょう》をしていた。かわいそうな気はしたが、また宿を変えるのも見苦しいことであるし、面倒《めんどう》でもあったから、ある人々は奥のほうへはいり、残りの人々はまた見えない部屋《へや》のほうへやったりなどして、姫君と女房たちとだけはもとの部屋の片すみのほうへ寄って、幕のようなもので座敷の仕切りをして済ませていた。あとの客も無作法な人たちではなかった。遠慮深く静かで、双方ともつつましい相い客になっていた。このあとから来た女というのは、姫君を片時も忘れずに恋しがっている右近であった。年月がたつにしたがって、いつまでも続けている女房勤めも気がさすように思われて、煩悶《はんもん》のある心の慰めに、この寺へたびたび詣《まい》っているのである。長い間の経験で徒歩の旅を大儀とも何とも思っているのではなかったが、さすがに足はくたびれて横になっていた。こちらの豊後介は幕の所へ来て、食事なのであろう、自身で折敷《おしき
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