た。侍従も涙でものが言えないほどになっていた。
「乳母《まま》が申し上げましたことはむろんでございますが、そのほかにもごいっしょに長い間苦労をしてまいりましたのに、思いがけない縁に引かれて、しかも遠方へまで行ってしまいますとは」
 と言って、また、

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「玉かづら絶えてもやまじ行く道のたむけの神もかけて誓はん
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 命のございます間はあなた様に誠意をお見せします」
 などとも言う。
「侍従はどうしました。暗くなりましたよ」
 と大弐《だいに》夫人に小言《こごと》を言われて、侍従は夢中で車に乗ってしまった。そしてあとばかりが顧みられた。困りながらも長い間離れて行かなかった人が、こんなふうにして別れて行ったことで、女王はますます心細くなった。だれも雇い手のないような老いた女房までが、
「もっともですよ。どうしてこのままいられるものですか。私たちだってもう我慢ができませんよ」
 こんなことを言って、ほかへ勤める手蔓《てづる》を捜し始めて、ここを出る決心をしたらしいことを言い合うのを聞くことも末摘花の身にはつらいことであった。十一月になると雪や霙《みぞれ》の日が多くなって、ほかの所では消えている間があっても、ここでは丈の高い枯れた雑草の蔭《かげ》などに深く積もったものは量《かさ》が高くなるばかりで越《こし》の白山《はくさん》をそこに置いた気がする庭を、今はもうだれ一人出入りする下男もなかった。こんな中につれづれな日を送るよりしかたのない末摘花の女王であった。泣き合い笑い合うこともあった侍従がいなくなってからは、夜の塵《ちり》のかかった帳台の中でただ一人寂しい思いをして寝た。
 源氏は長くこがれ続けた紫夫人のもとへ帰りえた満足感が大きくて、ただの恋人たちの所などへは足が向かない時期でもあったから、常陸《ひたち》の宮の女王はまだ生きているだろうかというほどのことは時々心に上らないことはなかったが、捜し出してやりたいと思うことも、急ぐことと思われないでいるうちにその年も暮れた。四月ごろに花散里《はなちるさと》を訪ねて見たくなって夫人の了解を得てから源氏は二条の院を出た。幾日か続いた雨の残り雨らしいものが降ってやんだあとで月が出てきた。青春時代の忍び歩きの思い出される艶《えん》な夕月夜であった。車の中の源氏は昔をうつらうつらと幻に見ていると、形もないほどに荒れた大木が森のような邸《やしき》の前に来た。高い松に藤《ふじ》がかかって月の光に花のなびくのが見え、風といっしょにその香がなつかしく送られてくる。橘《たちばな》とはまた違った感じのする花の香に心が惹《ひ》かれて、車から少し顔を出すようにしてながめると、長く枝をたれた柳も、土塀《どべい》のない自由さに乱れ合っていた。見たことのある木立ちであると源氏は思ったが、以前の常陸の宮であることに気がついた。源氏は物哀れな気持ちになって車を止めさせた。例の惟光《これみつ》はこんな微行にはずれたことのない男で、ついて来ていた。
「ここは常陸の宮だったね」
「さようでございます」
「ここにいた人がまだ住んでいるかもしれない。私は訪ねてやらねばならないのだが、わざわざ出かけることもたいそうになるから、この機会に、もしその人がいれば逢ってみよう。はいって行って尋ねて来てくれ。住み主がだれであるかを聞いてから私のことを言わないと恥をかくよ」
 と源氏は言った。
 末摘花の君は物悩ましい初夏の日に、その昼間うたた寝をした時の夢に父宮を見て、さめてからも名残《なごり》の思いにとらわれて、悲しみながら雨の洩《も》って濡《ぬ》れた廂《ひさし》の室の端のほうを拭《ふ》かせたり部屋の中を片づけさせたりなどして、平生にも似ず歌を思ってみたのである。

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亡《な》き人を恋ふる袂《たもと》のほどなきに荒れたる軒の雫《しづく》さへ添ふ
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 こんなふうに、寂しさを書いていた時が、源氏の車の止められた時であった。
 惟光は邸の中へはいってあちらこちらと歩いて見て、人のいる物音の聞こえる所があるかと捜したのであるが、そんな物はない。自分の想像どおりにだれもいない、自分は往《ゆ》き返りにこの邸《やしき》は見るが、人の住んでいる所とは思われなかったのだからと思って惟光が足を返そうとする時に、月が明るくさし出したので、もう一度見ると、格子《こうし》を二間ほど上げて、そこの御簾《みす》は人ありげに動いていた。これが目にはいった刹那《せつな》は恐ろしい気さえしたが、寄って行って声をかけると、老人らしく咳《せき》を先に立てて答える女があった。
「いらっしゃったのはどなたですか」
 惟光《これみつ》は自分の名を告げてから、
「侍従さんという方にちょっとお目にか
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