た自分の生んだ子を愛してくれているのは幸福でなくて何であろうと明石の君はようやくこのごろになって思うようになった。乳母は源氏の手紙をいっしょに読んでいて、人間にはこんなに意外な幸運を持っている人もあるのである、みじめなのは自分だけであると悲しまれたが、乳母はどうしているかということも奥に書かれてあって、源氏が自分に関心を持っていることを知ることができたので満足した。返事は、

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数ならぬみ島がくれに鳴く鶴《たづ》を今日もいかにと訪《と》ふ人ぞなき

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いろいろに物思いをいたしながら、たまさかのおたよりを命にしておりますのもはかない私でございます。仰せのように子供の将来に光明を認めとうございます。
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 というので、信頼した心持ちが現われていた。何度も同じ手紙を見返しながら、
「かわいそうだ」
 と長く声を引いて独言《ひとりごと》を言っているのを、夫人は横目にながめて、「浦より遠《をち》に漕《こ》ぐ船の」(我をば他《よそ》に隔てつるかな)と低く言って、物思わしそうにしていた。
「そんなにあなたに悪く思われるようにまで私はこの女を愛しているのではない。それはただそれだけの恋ですよ。そこの風景が目に浮かんできたりする時々に、私は当時の気持ちになってね、つい歎息《たんそく》が口から出るのですよ。なんでも気にするのですね」
 などと、恨みを言いながら上包みに書かれた字だけを夫人に見せた。品のよい手跡で貴女《きじょ》も恥ずかしいほどなのを見て、夫人はこうだからであると思った。
 こんなふうに紫の女王《にょおう》の機嫌《きげん》を取ることにばかり追われて、花散里《はなちるさと》を訪《たず》ねる夜も源氏の作られないのは女のためにかわいそうなことである。このごろは公務も忙しい源氏であった。外出に従者も多く従えて出ねばならぬ身分の窮屈《きゅうくつ》さもある上に、花散里その人がきわだつ刺戟《しげき》も与えぬ人であることを知っている源氏は、今日逢わねばと心の湧《わ》き立つこともないのであった。
 五月雨《さみだれ》のころは源氏もつれづれを覚えたし、ちょうど公務も閑暇《ひま》であったので、思い立ってその人の所へ行った。訪ねては行かないでも源氏の君はこの一家の生活を保護することを怠っていなかったのである。それにたよっている人は恨むことがあっても、ただみずからの薄命を歎《なげ》く程度のものであったから源氏は気楽に見えた。何年かのうちに邸内《やしきうち》はいよいよ荒れて、すごいような広い住居《すまい》であった。姉の女御《にょご》の所で話をしてから、夜がふけたあとで西の妻戸をたたいた。朧《おぼ》ろな月のさし込む戸口から艶《えん》な姿で源氏ははいって来た。美しい源氏と月のさす所に出ていることは恥ずかしかったが、初めから花散里はそこに出ていたのでそのままいた。この態度が源氏の気持ちを楽にした。水鶏《くいな》が近くで鳴くのを聞いて、

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水鶏だに驚かさずばいかにして荒れたる宿に月を入れまし
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 なつかしい調子で言うともなくこう言う女が感じよく源氏に思われた。どの人にも自身を惹《ひ》く力のあるのを知って源氏は苦しかった。

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「おしなべてたたく水鶏に驚かばうはの空なる月もこそ入れ
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 私は安心していられない」
 とは言っていたが、それは言葉の戯れであって、源氏は貞淑な花散里を信じ切っている。何に動揺することもなく長く留守《るす》の間を静かに待っていてくれた人を、源氏はおろそかには思っていなかった。当分悲しくならないがために空はながめないで暮らすようにと、行く前に源氏が言った夜のことなどを思い出して言うのであった。
「なぜあの時に私は非常に悲しいことだと思ったのでしょう。私などはあなたに幸福の帰って来た今だってもやはり寂しいのでしたのに」
 と恨みともなしにおおように言っているのが可憐《かれん》であった。例のように源氏は言葉を尽くして女を慰めていた。平生どうしまってあったこの人の熱情かと思われるようである。こんな機会がまた作られたならば、大弐《だいに》の五節《ごせち》に逢いたいと源氏は願っていたが、五節の訪問も実現がむずかしいと見なければならない。女は源氏を忘れることができないで、物思いの多い日を送っていて、親が心配してかれこれと勧める結婚話には取り合わずに、人並みの女の幸福などはいらないと思っていた。源氏は東の院は本邸でなく、そんな人たちを集めて住ませようと建築をさせているのであったから、もし理想どおりにかしずき娘ができてくることがあったら、顧問格の女として才女の五節などは必要な人物であると源氏は思っていた。
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