源氏物語

紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)五十鈴《いすず》川

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鈴鹿《すずか》川|八十瀬《やそせ》の

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(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]五十鈴《いすず》川神のさかひへのがれきぬおも
[#地から3字上げ]ひあがりしひとの身のはて (晶子)

 斎宮《さいぐう》の伊勢へ下向《げこう》される日が近づけば近づくほど御息所《みやすどころ》は心細くなるのであった。左大臣家の源氏の夫人がなくなったあとでは、世間も今度は源氏と御息所が公然と夫婦になるものと噂《うわさ》していたことであるし、六条の邸《やしき》の人々もそうした喜びを予期して興奮していたものであるが、現われてきたことは全然反対で、以前にまさって源氏は冷淡な態度を取り出したのである。これだけの反感を源氏に持たれるようなことが夫人の病中にあったことも、もはや疑う余地もないことであると御息所の心のうちでは思っていた。苦痛を忍んで御息所は伊勢行きを断行することにした。斎宮に母君がついて行くような例はあまりないことでもあったが、年少でおありになるということに託して、御息所はきれいに恋から離れてしまおうとしているのであるが、源氏はさすがに冷静ではいられなかった。いよいよ御息所に行ってしまわれることは残念で、手紙だけは愛をこめてたびたび送っていた。情人として逢《あ》うようなことは思いもよらないようにもう今の御息所は思っていた。自分に逢っても恨めしく思った記憶のまだ消えない源氏は冷静にも別れうるであろうが、その人をより多く愛している弱味のある自分は心を乱さないではいられないであろう、逢うことはこの上にいっそう苦痛を加えるだけであると思って、御息所はしいて冷ややかになっているのである。野の宮から六条の邸《やしき》へそっと帰って行っていることもあるのであるが、源氏はそれを知らなかった。野の宮といえば情人として男の通ってよい場所でもないから、二人のためには相見る時のない月日がたった。院が御大病というのでなしに、時々発作的に悪くおなりになるようなことがあったりして、源氏はいよいよ心の余裕の少ない身になっていたが、恨んでいるままに終わることは女のためにかわいそうであったし、人が聞いて肯定しないことでもあろうからと思って、源氏は御息所を野の宮へ訪問することにした。
 九月七日であったから、もう斎宮の出発の日は迫っているのである。女のほうも今はあわただしくてそうしていられないと言って来ていたが、たびたび手紙が行くので、最後の会見をすることなどはどうだろうと躊躇《ちゅうちょ》しながらも、物越しで逢うだけにとめておけばいいであろうと決めて、心のうちでは昔の恋人の来訪を待っていた。
 町を離れて広い野に出た時から、源氏は身にしむものを覚えた。もう秋草の花は皆衰えてしまって、かれがれに鳴く虫の声と松風の音が混じり合い、その中をよく耳を澄まさないでは聞かれないほどの楽音が野の宮のほうから流れて来るのであった。艶《えん》な趣である。前駆をさせるのに睦《むつま》じい者を選んだ十幾人と随身とをあまり目だたせないようにして伴った微行《しのび》の姿ではあるが、ことさらにきれいに装うて来た源氏がこの野を行くことを風流好きな供の青年はおもしろがっていた。源氏の心にも、なぜ今までに幾度もこの感じのよい野中の路《みち》を訪問に出なかったのであろうとくやしかった。
 野の宮は簡単な小柴垣《こしばがき》を大垣にして連ねた質素な構えである。丸木の鳥居などはさすがに神々《こうごう》しくて、なんとなく神の奉仕者以外の者を恥ずかしく思わせた。神官らしい男たちがあちらこちらに何人かずついて、咳《せき》をしたり、立ち話をしたりしている様子なども、ほかの場所に見られぬ光景であった。篝《かがり》火を焚《た》いた番所がかすかに浮いて見えて、全体に人少なな湿っぽい空気の感ぜられる、こんな所に物思いのある人が幾月も暮らし続けていたのかと思うと、源氏は恋人がいたましくてならなかった。北の対の下の目だたない所に立って案内を申し入れると音楽の声はやんでしまって、若い何人もの女の衣摺《きぬず》れらしい音が聞こえた。取り次ぎの女があとではまた変わって出て来たりしても、自身で逢おうとしないらしいのを源氏は飽き足らず思った。
「恋しい方を訪《たず》ねて参るようなことも感情にまかせてできた私の時代はもう過ぎてしまいまして、どんなに世間をはばかって来ているかしれませんような私に、同情してくださいますなら、こんなよそよそしいお扱いはなさらないで、逢ってくだすってお話ししたくてならないことも聞いてくださいませんか」
 とまじめに源氏が頼むと女房たちも、
「おっしゃることのほうがごもっともでございます。お気の毒なふうにいつまでもお立たせしておきましては済みません」
 ととりなす。どうすればよいかと御息所は迷った。潔斎所《けっさいじょ》についている神官たちにどんな想像をされるかしれないことであるし、心弱く面会を承諾することによって、またも源氏の軽蔑《けいべつ》を買うのではないかと躊躇《ちゅうちょ》はされても、どこまでも冷淡にはできない感情に負けて、歎息《たんそく》を洩《も》らしながら座敷の端のほうへ膝行《いざっ》てくる御息所の様子には艶《えん》な品のよさがあった。源氏は、
「お縁側だけは許していただけるでしょうか」
 と言って、上に上がっていた。長い時日を中にした会合に、無情でなかった言いわけを散文的に言うのもきまりが悪くて、榊《さかき》の枝を少し折って手に持っていたのを、源氏は御簾《みす》の下から入れて、
「私の心の常磐《ときわ》な色に自信を持って、恐れのある場所へもお訪《たず》ねして来たのですが、あなたは冷たくお扱いになる」
 と言った。

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神垣《かみがき》はしるしの杉《すぎ》もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ
[#ここで字下げ終わり]

 御息所はこう答えたのである。

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少女子《おとめご》があたりと思へば榊葉の香《か》をなつかしみとめてこそ折れ
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 と源氏は言ったのであった。潔斎所の空気に威圧されながらも御簾の中へ上半身だけは入れて長押《なげし》に源氏はよりかかっているのである。御息所が完全に源氏のものであって、しかも情熱の度は源氏よりも高かった時代に、源氏は慢心していた形でこの人の真価を認めようとはしなかった。またいやな事件も起こって来た時からは、自身の心ながらも恋を成るにまかせてあった。それが昔のようにして語ってみると、にわかに大きな力が源氏をとらえて御息所のほうへ引き寄せるのを源氏は感ぜずにいられなかった。自分はこの人が好きであったのだという認識の上に立ってみると、二人の昔も恋しくなり、別れたのちの寂しさも痛切に考えられて、源氏は泣き出してしまったのである。女は感情をあくまでもおさえていようとしながらも、堪えられないように涙を流しているのを見るといよいよ源氏は心苦しくなって、伊勢行きを思いとどまらせようとするのに身を入れて話していた。もう月が落ちたのか、寂しい色に変わっている空をながめながら、自身の真実の認められないことで歎《なげ》く源氏を見ては、御息所の積もり積もった恨めしさも消えていくことであろうと見えた。ようやくあきらめができた今になって、また動揺することになってはならない危険な会見を避けていたのであるが、予感したとおりに御息所の心はかき乱されてしまった。
 若い殿上役人が始終二、三人連れで来てはここの文学的な空気に浸っていくのを喜びにしているという、この構えの中のながめは源氏の目にも確かに艶《えん》なものに見えた。あるだけの恋の物思いを双方で味わったこの二人のかわした会話は写しにくい。ようやく白んできた空がそこにあるということもわざとこしらえた背景のようである。

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暁の別れはいつも露けきをこは世にしらぬ秋の空かな
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 と歌った源氏は、帰ろうとしてまた女の手をとらえてしばらく去りえないふうであった。冷ややかに九月の風が吹いて、鳴きからした松虫の声の聞こえるのもこの恋人たちの寂しい別れの伴奏のようである。何でもない人にも身にしむ思いを与えるこうした晩秋の夜明けにいて、あまりに悲しみ過ぎたこの人たちはかえって実感をよい歌にすることができなかったと見える。

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大方《おほかた》の秋の別れも悲しきに鳴く音《ね》な添へそ野辺《のべ》の松虫
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 御息所《みやすどころ》の作である。この人を永久につなぐことのできた糸は、自分の過失で切れてしまったと悔やみながらも、明るくなっていくのを恐れて源氏は去った。そして二条の院へ着くまで絶えず涙がこぼれた。女も冷静でありえなかった。別れたのちの物思いを抱いて弱々しく秋の朝に対していた。ほのかに月の光に見た源氏の姿をなお幻に御息所は見ているのである。源氏の衣服から散ったにおい、そんなものは若い女房たちを忌垣《いがき》の中で狂気にまでするのではないかと思われるほど今朝《けさ》もほめそやしていた。
「どんないい所へだって、あの大将さんをお見上げすることのできない国へは行く気がしませんわね」
 こんなことを言う女房は皆涙ぐんでいた。この日源氏から来た手紙は情がことにこまやかに出ていて、御息所に旅を断念させるに足る力もあったが、官庁への通知も済んだ今になって変更のできることでもなかった。男はそれほど思っていないことでも恋の手紙には感情を誇張して書くものであるが、今の源氏の場合は、ただの恋人とは決して思っていなかった御息所が、愛の清算をしてしまったふうに遠国へ行こうとするのであるから、残念にも思われ、気の毒であるとも反省しての煩悶《はんもん》のかなりひどい実感で書いた手紙であるから、女へそれが響いていったものに違いない。御息所の旅中の衣服から、女房たちのまで、そのほかの旅の用具もりっぱな物をそろえた餞別《せんべつ》が源氏から贈られて来ても、御息所はうれしいなどと思うだけの余裕も心になかった。噂《うわさ》に歌われるような恋をして、最後には捨てられたということを、今度始まったことのように口惜《くちお》しく悲しくばかり思われるのであった。お若い斎宮は、いつのことともしれなかった出発の日の決まったことを喜んでおいでになった。世間では、母君がついて行くことが異例であると批難したり、ある者はまた御息所の強い母性愛に同情したりしていた。御息所が平凡な人であったら、決してこうではなかったことと思われる。傑出した人の行動は目に立ちやすくて気の毒である。
 十六日に桂川で斎宮の御禊《みそぎ》の式があった。常例以上はなやかにそれらの式も行なわれたのである。長奉送使《ちょうぶそうし》、その他官庁から参列させる高官も勢名のある人たちばかりを選んであった。院が御後援者でいらせられるからである。出立の日に源氏から別離の情に堪えがたい心を書いた手紙が来た。ほかにまた斎《いつき》の宮のお前へといって、斎布《ゆふ》につけたものもあった。
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いかずちの神でさえ恋人の中を裂くものではないと言います。

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八洲《やしま》もる国つ御神《みかみ》もこころあらば飽かぬ別れの中をことわれ

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どう考えましても神慮がわかりませんから、私は満足できません。
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 と書かれてあった。取り込んでいたが返事をした。宮のお歌を女別当《にょべっとう》が代筆したものであった。

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国つ神空にことわる中ならばなほざりごとを先《ま》づやたださん
[#ここで字下げ終わり]

 源氏は最後に宮中である式を見たくも思ったが、捨てて行かれる男が見送りに出ると
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