下襲《したがさね》の袖口《そでぐち》などであったが、かえって艶《えん》に上品に見えないこともなかった。解けてきた池の薄氷にも、芽をだしそめた柳にも自然の春だけが見えて、いろいろに源氏の心をいたましくした。「音に聞く松が浦島《うらしま》今日ぞ見るうべ心ある海人《あま》は住みけり」という古歌を口ずさんでいる源氏の様子が美しかった。

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ながめかる海人の住処《すみか》と見るからにまづしほたるる松が浦島
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 と源氏は言った。今はお座敷の大部分を仏に譲っておいでになって、お居間は端のほうへ変えられたお住居《すまい》であったから、宮の御座と源氏自身の座の近さが覚えられて、

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ありし世の名残《なご》りだになき浦島に立ちよる波のめづらしきかな
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 と取り次ぎの女房へお教えになるお声もほのかに聞こえるのであった。源氏の涙がほろほろとこぼれた。今では人生を悟りきった尼になっている女房たちにこれを見られるのが恥ずかしくて、長くはいずに源氏は退出した。
「ますますごりっぱにお見えになる。あらゆる幸福を御自分のものにしていらっしゃったころは、ただ天下の第一の人であるだけで、それだけではまだ人生がおわかりにならなかったわけで、ごりっぱでもおきれいでも、正しい意味では欠けていらっしゃるところがあったのです。御幸福ばかりでなくおなりになって、深味がおできになりましたね。しかしお気の毒なことですよ」
 などと老いた女房が泣きながらほめていた。中宮もお心にいろいろな場合の過去の源氏の面影を思っておいでになった。
 春期の官吏の除目《じもく》の際にも、この宮付きになっている人たちは当然得ねばならぬ官も得られず、宮に付与されてある権利で推薦あそばされた人々の位階の陞叙《しょうじょ》もそのままに捨て置かれて、不幸を悲しむ人が多かった。尼におなりになったことで后の御位《みくらい》は消滅して、それとともに給封もなくなるべきであると法文を解釈して、その口実をつけて政府の御待遇が変わってきた。宮は予期しておいでになったことで、何の執着もそれに対して持っておいでにならなかったが、お付きの役人たちにたより所を失った悲しいふうの見える時などはお心にいささかの動揺をお感じにならないこともなかった。しかも自分は犠牲になっても東宮の御即位に支障を起こさないように祈るべきであると、宮はどんな時にもお考えになっては専心に仏勤めをあそばされた。お心の中に人知れぬ恐怖と不安があって、御自身の信仰によって、その罪の東宮に及ばないことを期しておいでになった。そうしてみずから慰められておいでになったのである。源氏もこの宮のお心持ちを知っていて、ごもっともであると感じていた。一方では家司《けいし》として源氏に属している官吏も除目《じもく》の結果を見れば不幸であった。不面目な気がして源氏は家にばかり引きこもっていた。左大臣も公人として、また個人として幸福の去ってしまった今日を悲観して致仕の表を奉った。帝は院が非常に御信用あそばして、国家の柱石は彼であると御遺言あそばしたことを思召《おぼしめ》すと、辞表を御採用になることができなくて、たびたびお返しになったが、大臣のほうではまた何度も繰り返して、辞意を奏上して、そしてそのまま出仕をしないのであったから、太政大臣一族だけが栄えに栄えていた。国家の重鎮である大臣が引きこもってしまったので、帝も心細く思召されるし、世間の人たちも歎《なげ》いていた。左大臣家の公子たちもりっぱな若い官吏で、皆順当に官位も上りつつあったが、もうその時代は過ぎ去ってしまった。三位《さんみ》中将などもこうした世の中に気をめいらせていた。太政大臣の四女の所へ途絶えがちに通いは通っているが、誠意のない婿であるということに反感を持たれていて、思い知れというように今度の除目にはこの人も現官のままで置かれた。この人はそんなことは眼中に置いていなかった。源氏の君さえも不遇の歎《なげ》きがある時代であるのだから、まして自分などはこう取り扱わるべきであるとあきらめていて、始終源氏の所へ来て、学問も遊び事もいっしょにしていた。青年時代の二人の間に強い競争心のあったことを思い出して、今でも遊び事の時などに、一方のすることをそれ以上に出ようとして一方が力を入れるというようなことがままあった。春秋の読経《どきょう》の会以外にもいろいろと宗教に関した会を開いたり、現代にいれられないでいる博士《はかせ》や学者を集めて詩を作ったり、韻《いん》ふたぎをしたりして、官吏の職務を閑却した生活をこの二人がしているという点で、これを問題にしようとしている人もあるようである。
 夏の雨がいつやむともなく降ってだれもつれづれを感じるころ
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