の悲しみがありました時、すぐにそういたしましては人騒がせにもなりますし、それでまた私自身も取り乱しなどしてはと思いまして」
 例の命婦《みょうぶ》がお言葉を伝えたのである。源氏は御簾《みす》の中のあらゆる様子を想像して悲しんだ。おおぜいの女の衣摺《きぬず》れなどから、身もだえしながら悲しみをおさえているのがわかるのであった。風がはげしく吹いて、御簾の中の薫香《くんこう》の落ち着いた黒方香《くろぼうこう》の煙も仏前の名香のにおいもほのかに洩《も》れてくるのである。源氏の衣服の香もそれに混じって極楽が思われる夜であった。東宮のお使いも来た。お別れの前に東宮のお言いになった言葉などが宮のお心にまた新しくよみがえってくることによって、冷静であろうとあそばすお気持ちも乱れて、お返事の御挨拶を完全にお与えにならないので、源氏がお言葉を補った。だれもだれも常識を失っているといってもよいほど悲しみに心を乱しているおりからであるから、不用意に秘密のうかがわれる恐れのある言葉などは発せられないと源氏は思った。

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「月のすむ雲井をかけてしたふともこのよの闇《やみ》になほや惑はん
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 私にはそう思えますが、御出家のおできになったお心持ちには敬服いたされます」
 とだけ言って、お居間に女房たちも多い様子であったから源氏は捨てられた男の悲痛な心持ちを簡単な言葉にして告げることもできなかった。

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「大方《おほかた》の憂《う》きにつけては厭《いと》へどもいつかこの世を背《そむ》きはつべき
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 りっぱな信仰を持つようにはいつなれますやら」
 宮の御挨拶は東宮へのお返事を兼ねたお心らしかった。悲しみに堪えないで源氏は退出した。
 二条の院へ帰っても西の対へは行かずに、自身の居間のほうに一人|臥《ぶ》しをしたが眠りうるわけもない。ますます人生が悲しく思われて自身も僧になろうという心の起こってくるのを、そうしては東宮がおかわいそうであると思い返しもした。せめて母宮だけを最高の地位に置いておけばと院は思召したのであったが、その地位も好意を持たぬ者の苦しい圧迫のためにお捨てになることになった。尼におなりになっては后《きさき》としての御待遇をお受けになることもおできにならないであろうし、その上自分までが東宮のお力になれぬことになってはならないと源氏は思うのである。夜通しこのことを考え抜いて最後に源氏は中宮のために尼僧用のお調度、お衣服を作ってさしあげる善行をしなければならぬと思って、年内にすべての物を調えたいと急いだ。王命婦《おうみょうぶ》もお供をして尼になったのである。この人へも源氏は尼用の品々を贈った。こんな場合にりっぱな詩歌《しいか》ができてよいわけであるから、宮の女房の歌などが当時の詳しい記事とともに見いだせないのを筆者は残念に思う。
 源氏が三条の宮邸を御訪問することも気楽にできるようになり、宮のほうでも御自身でお話をあそばすこともあるようになった。少年の日から思い続けた源氏の恋は御出家によって解消されはしなかったが、これ以上に御接近することは源氏として、今日考えるべきことでなかったのである。
 春になった。御所では内宴とか、踏歌《とうか》とか続いてはなやかなことばかりが行なわれていたが中宮は人生の悲哀ばかりを感じておいでになって、後世《ごせ》のための仏勤めに励んでおいでになると、頼もしい力もおのずから授けられつつある気もあそばされたし、源氏の情火から脱《のが》れえられたことにもお悦《よろこ》びがあった。お居間に隣った念誦《ねんず》の室のほかに、新しく建築された御堂《みどう》が西の対の前を少し離れた所にあってそこではまた尼僧らしい厳重な勤めをあそばされた。源氏が伺候した。正月であっても来訪者は稀《まれ》で、お付き役人の幾人だけが寂しい恰好《かっこう》をして、力のないふうに事務を取っていた。白馬《あおうま》の節会《せちえ》であったから、これだけはこの宮へも引かれて来て、女房たちが見物したのである。高官が幾人となく伺候していたようなことはもう過去の事実になって、それらの人々は宮邸を素通りして、向かい側の現太政大臣邸へ集まって行くのも、当然といえば当然であるが、寂しさに似た感じを宮もお覚えになった。そんな所へ千人の高官にあたるような姿で源氏がわざわざ参賀に来たのを御覧になった時は、わけもなく宮は落涙をあそばした。源氏もなんとなく身にしむふうにあたりをながめていて、しばらくの間はものが言えなかった。純然たる尼君のお住居《すまい》になって、御簾《みす》の縁《ふち》の色も几帳《きちょう》も鈍《にび》色であった。そんな物の間から見えるのも女房たちの淡鈍《うすにび》色の服、黄色な
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