ったが、この障《さわ》りで官吏の任免は決まらずに終わった形である。若い夫人の突然の死に左大臣邸は混乱するばかりで、夜中のことであったから叡山《えいざん》の座主《ざす》も他の僧たちも招く間がなかった。もう危篤な状態から脱したものとして、だれの心にも油断のあった隙《すき》に、死が忍び寄ったのであるから、皆|呆然《ぼうぜん》としている。所々の慰問使が集まって来ていても、挨拶《あいさつ》の取り次ぎを託されるような人もなく、泣き声ばかりが邸内に満ちていた。大臣夫婦、故人の良人《おっと》である源氏の歎《なげ》きは極度のものであった。これまで物怪《もののけ》のために一時的な仮死状態になったこともたびたびあったのを思って、死者として枕を直すこともなく、二、三日はなお病夫人として寝させて、蘇生《そせい》を待っていたが、時間はすでに亡骸《なきがら》であることを証明するばかりであった。もう死を否定してみる理由は何一つないことをだれも認めたのである。源氏は妻の死を悲しむとともに、人生の厭《いと》わしさが深く思われて、所々から寄せてくる弔問の言葉も、どれもうれしく思われなかった。院もお悲しみになってお使いをくだされた。大臣は娘の死後の光栄に感激する涙も流しているのである。人の忠告に従い蘇生の術として、それは遺骸《いがい》に対して傷《いた》ましい残酷な方法で行なわれることまでも大臣はさせて、娘の息の出てくることを待っていたが皆だめであった。もう幾日かになるのである。いよいよ夫人を鳥辺野《とりべの》の火葬場へ送ることになった。こうしてまた人々は悲しんだのである。左大臣の愛嬢として、源氏の夫人として葬送の式に列《つらな》る人、念仏のために集められた寺々の僧、そんな人たちで鳥辺野がうずめられた。院はもとよりのこと、お后方、東宮から賜わった御使いが次々に葬場へ参着して弔詞を読んだ。悲しみにくれた大臣は立ち上がる力も失っていた。
「こんな老人になってから、若盛りの娘に死なれて無力に私は泣いているじゃないか」
 恥じてこう言って泣く大臣を悲しんで見ぬ人もなかった。夜通しかかったほどの大がかりな儀式であったが、終局は煙にすべく遺骸を広い野に置いて来るだけの寂しいことになって皆早暁に帰って行った。死はそうしたものであるが、前《さき》に一人の愛人を死なせただけの経験よりない源氏は今また非常な哀感を得たのである。
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