源氏物語
花宴
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紫宸殿《ししんでん》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|探韵《たんいん》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]春の夜のもやにそひたる月ならん手枕
[#地から3字上げ]かしぬ我が仮ぶしに    (晶子)

 二月の二十幾日に紫宸殿《ししんでん》の桜の宴があった。玉座の左右に中宮《ちゅうぐう》と皇太子の御見物の室が設けられた。弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》は藤壺《ふじつぼ》の宮が中宮になっておいでになることで、何かのおりごとに不快を感じるのであるが、催し事の見物は好きで、東宮席で陪観していた。日がよく晴れて青空の色、鳥の声も朗らかな気のする南庭を見て親王方、高級官人をはじめとして詩を作る人々は皆|探韵《たんいん》をいただいて詩を作った。源氏は、
「春という字を賜わる」
 と、自身の得る韵字《いんじ》を披露《ひろう》したが、その声がすでに人よりすぐれていた。次は頭中将《とうのちゅうじょう》で、この順番を晴れがましく思うことであろうと見えたが、きわめて無難に得た韵字を告げた。声《こわ》づかいに貫目があると思われた。その他の人は臆《おく》してしまったようで、態度も声もものにならぬのが多かった。地下《じげ》の詩人はまして、帝も東宮も詩のよい作家で、またよい批評家でおありになったし、そのほかにもすぐれた詩才のある官人の多い時代であったから、恥ずかしくて、清い広庭に出て行くことが、ちょっとしたことなのであるが難事に思われた。博士《はかせ》などがみすぼらしい風采《ふうさい》をしながらも場馴《ばな》れて進退するのにも御同情が寄ったりして、この御覧になる方々はおもしろく思召《おぼしめ》された。奏せられる音楽も特にすぐれた人たちが選ばれていた。春の永日《ながび》がようやく入り日の刻になるころ、春鶯囀《しゅんおうてん》の舞がおもしろく舞われた。源氏の紅葉賀《もみじのが》の青海波《せいがいは》の巧妙であったことを忘れがたく思召《おぼしめ》して、東宮が源氏へ挿《かざし》の花を下賜あそばして、ぜひこの舞に加わるようにと切望あそばされた。辞しがたくて、一振りゆるゆる袖《そで》を反《かえ》す春鶯囀の一節を源氏も舞ったが、だれも追随しがたい巧妙さはそれだけにも見えた。左大臣は恨めしいことも忘れて落涙していた。
「頭中将はどうしたか、早く出て舞わぬか」
 次いでその仰せがあって、柳花苑《りゅうかえん》という曲を、これは源氏のよりも長く、こんなことを予期して稽古がしてあったか上手《じょうず》に舞った。それによって中将は御衣《ぎょい》を賜わった。花の宴にこのことのあるのを珍しい光栄だと人々は見ていた。高級の官人もしまいには皆舞ったが、暗くなってからは芸の巧拙《こうせつ》がよくわからなくなった。詩の講ぜられる時にも源氏の作は簡単には済まなかった。句ごとに讃美の声が起こるからである。博士たちもこれを非常によい作だと思った。こんな時にもただただその人が光になっている源氏を、父君陛下がおろそかに思召すわけはない。中宮はすぐれた源氏の美貌がお目にとまるにつけても、東宮の母君の女御がどんな心でこの人を憎みうるのであろうと不思議にお思いになり、そのあとではまたこんなふうに源氏に関心を持つのもよろしくない心であると思召した。

[#ここから2字下げ]
大かたに花の姿を見ましかばつゆも心のおかれましやは
[#ここで字下げ終わり]

 こんな歌はだれにもお見せになるはずのものではないが、どうして伝わっているのであろうか。夜がふけてから南殿の宴は終わった。
 公卿《こうけい》が皆退出するし、中宮と東宮はお住居《すまい》の御殿へお帰りになって静かになった。明るい月が上ってきて、春の夜の御所の中が美しいものになっていった。酔いを帯びた源氏はこのままで宿直所《とのいどころ》へはいるのが惜しくなった。殿上《てんじょう》の役人たちももう寝《やす》んでしまっているこんな夜ふけにもし中宮へ接近する機会を拾うことができたらと思って、源氏は藤壺の御殿をそっとうかがってみたが、女房を呼び出すような戸口も皆閉じてしまってあったので、歎息《たんそく》しながら、なお物足りない心を満たしたいように弘徽殿の細殿の所へ歩み寄ってみた。三の口があいている。女御は宴会のあとそのまま宿直に上がっていたから、女房たちなどもここには少しよりいないふうがうかがわれた。この戸口の奥にあるくるる戸もあいていて、そして人音がない。こうした不用心な時に男も女もあやまった運命へ踏み込むものだと思って源氏は静かに縁側へ上がって中をのぞいた。だ
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