もこんな家へ置いておくことは気がかりでたまらない。私の始終住んでいる家《うち》へお移ししよう。こんな寂しい生活をばかりしていらっしゃっては女王さんが神経衰弱におなりになるから」
と源氏が言った。
「宮様もそんなにおっしゃいますが、あちらへおいでになることも、四十九日が済んでからがよろしかろうと存じております」
「お父様のお邸《やしき》ではあっても、小さい時から別の所でお育ちになったのだから、私に対するお気持ちと親密さはそう違わないでしょう。今からいっしょにいることが将来の障《さわ》りになるようなことは断じてない。私の愛が根底の深いものになるだけだと思う」
と女王の髪を撫《な》でながら源氏は言って顧みながら去った。深く霧に曇った空も艶《えん》であって、大地には霜が白かった。ほんとうの恋の忍び歩きにも適した朝の風景であると思うと、源氏は少し物足りなかった。近ごろ隠れて通っている人の家が途中にあるのを思い出して、その門をたたかせたが内へは聞こえないらしい。しかたがなくて供の中から声のいい男を選んで歌わせた。
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朝ぼらけ霧立つ空の迷ひにも行き過ぎがたき妹《いも》が門かな
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二度繰り返させたのである。気のきいたふうをした下仕《しもづか》えの女中を出して、
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立ちとまり霧の籬《まがき》の過ぎうくば草の戸ざしに障《さは》りしもせじ
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と言わせた。女はすぐに門へはいってしまった。それきりだれも出て来ないので、帰ってしまうのも冷淡な気がしたが、夜がどんどん明けてきそうで、きまりの悪さに二条の院へ車を進めさせた。
かわいかった小女王を思い出して、源氏は独《ひと》り笑《え》みをしながら又寝《またね》をした。朝おそくなって起きた源氏は手紙をやろうとしたが、書く文章も普通の恋人扱いにはされないので、筆を休め休め考えて書いた。よい絵なども贈った。
今日は按察使《あぜち》大納言家へ兵部卿《ひょうぶきょう》の宮が来ておいでになった。以前よりもずっと邸が荒れて、広くて古い家に小人数でいる寂しさが宮のお心を動かした。
「こんな所にしばらくでも小さい人がいられるものではない。やはり私の邸のほうへつれて行こう。たいしたむずかしい所ではないのだよ。乳母《めのと》は部屋《へや》をもらって住んでいればいいし、女王は何人も若い子がいるからいっしょに遊んでいれば非常にいいと思う」
などとお言いになった。そばへお呼びになった小女王の着物には源氏の衣服の匂《にお》いが深く沁《し》んでいた。
「いい匂いだね。けれど着物は古くなっているね」
心苦しく思召《おぼしめ》す様子だった。
「今までからも病身な年寄りとばかりいっしょにいるから、時々は邸のほうへよこして、母と子の情合いのできるようにするほうがよいと私は言ったのだけれど、絶対的にお祖母《ばあ》さんはそれをおさせにならなかったから、邸のほうでも反感を起こしていた。そしてついにその人が亡《な》くなったからといってつれて行くのは済まないような気もする」
と宮がお言いになる。
「そんなに早くあそばす必要はございませんでしょう。お心細くても当分はこうしていらっしゃいますほうがよろしゅうございましょう。少し物の理解がおできになるお年ごろになりましてからおつれなさいますほうがよろしいかと存じます」
少納言はこう答えていた。
「夜も昼もお祖母《ばあ》様が恋しくて泣いてばかりいらっしゃいまして、召し上がり物なども少のうございます」
とも歎《なげ》いていた。実際姫君は痩《や》せてしまったが、上品な美しさがかえって添ったかのように見える。
「なぜそんなにお祖母様のことばかりをあなたはお思いになるの、亡《な》くなった人はしかたがないんですよ。お父様がおればいいのだよ」
と宮は言っておいでになった。日が暮れるとお帰りになるのを見て、心細がって姫君が泣くと、宮もお泣きになって、
「なんでもそんなに悲しがってはしかたがない。今日明日にでもお父様の所へ来られるようにしよう」
などと、いろいろになだめて宮はお帰りになった。母も祖母も失った女の将来の心細さなどを女王は思うのでなく、ただ小さい時から片時の間も離れず付き添っていた祖母が死んだと思うことだけが非常に悲しいのである。子供ながらも悲しみが胸をふさいでいる気がして遊び相手はいても遊ぼうとしなかった。それでも昼間は何かと紛れているのであったが、夕方ごろからめいりこんでしまう。こんなことで小さいおからだがどうなるかと思って、乳母も毎日泣いていた。その日源氏の所からは惟光《これみつ》をよこした。
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伺うはずですが宮中からお召しがあるので失礼します。おかわいそうに拝見した女王さんのことが気になってなりません。
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源氏からの挨拶《あいさつ》はこれで惟光が代わりの宿直《とのい》をするわけである。
「困ってしまう。将来だれかと御結婚をなさらなければならない女王様を、これではもう源氏の君が奥様になすったような形をお取りになるのですもの。宮様がお聞きになったら私たちの責任だと言っておしかりになるでしょう」
「ねえ女王様、お気をおつけになって、源氏の君のことは宮様がいらっしゃいました時にうっかり言っておしまいにならないようになさいませね」
と少納言が言っても、小女王は、それが何のためにそうしなければならないかがわからないのである。少納言は惟光の所へ来て、身にしむ話をした。
「将来あるいはそうおなりあそばす運命かもしれませんが、ただ今のところはどうしてもこれは不つりあいなお間柄だと私らは存じますのに、御熱心に御縁組のことをおっしゃるのですもの、御酔興か何かと私どもは思うばかりでございます。今日も宮様がおいでになりまして、女の子だからよく気をつけてお守りをせい、うっかり油断をしていてはいけないなどとおっしゃいました時は、私ども何だか平気でいられなく思われました。昨晩のことなんか思い出すものですから」
などと言いながらも、あまりに歎《なげ》いて見せては姫君の処女であることをこの人に疑わせることになると用心もしていた。惟光もどんな関係なのかわからない気がした。帰って惟光が報告した話から、源氏はいろいろとその家のことが哀れに思いやられてならないのであったが、形式的には良人《おっと》らしく一泊したあとであるから、続いて通って行かねばならぬが、それはさすがに躊躇《ちゅうちょ》された。酔興な結婚をしたように世間が批評しそうな点もあるので、心がおけて行けないのである。二条の院へ迎えるのが良策であると源氏は思った。手紙は始終送った。日が暮れると惟光を見舞いに出した。
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やむをえぬ用事があって出かけられないのを、私の不誠実さからだとお思いにならぬかと不安です。
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などという手紙が書かれてくる。
「宮様のほうから、にわかに明日迎えに行くと言っておよこしになりましたので、取り込んでおります。長い馴染《なじみ》の古いお邸《やしき》を離れますのも心細い気のすることと私どもめいめい申し合っております」
と言葉数も少なく言って、大納言家の女房たちは今日はゆっくりと話し相手になっていなかった。忙しそうに物を縫ったり、何かを仕度《したく》したりする様子がよくわかるので、惟光《これみつ》は帰って行った。源氏は左大臣家へ行っていたが、例の夫人は急に出て来て逢《あ》おうともしなかったのである。面倒《めんどう》な気がして、源氏は東琴《あずまごと》(和琴《わごん》に同じ)を手すさびに弾《ひ》いて、「常陸《ひたち》には田をこそ作れ、仇心《あだごころ》かぬとや君が山を越え、野を越え雨夜《あまよ》来ませる」という田舎《いなか》めいた歌詞を、優美な声で歌っていた。惟光が来たというので、源氏は居間へ呼んで様子を聞こうとした。惟光によって、女王が兵部卿《ひょうぶきょう》の宮邸へ移転する前夜であることを源氏は聞いた。源氏は残念な気がした。宮邸へ移ったあとで、そういう幼い人に結婚を申し込むということも物好きに思われることだろう。小さい人を一人盗んで行ったという批難を受けるほうがまだよい。確かに秘密の保ち得られる手段を取って二条の院へつれて来ようと源氏は決心した。
「明日夜明けにあすこへ行ってみよう。ここへ来た車をそのままにして置かせて、随身を一人か二人仕度させておくようにしてくれ」
という命令を受けて惟光は立った。源氏はそののちもいろいろと思い悩んでいた。人の娘を盗み出した噂《うわさ》の立てられる不名誉も、もう少しあの人が大人で思い合った仲であればその犠牲も自分は払ってよいわけであるが、これはそうでもないのである。父宮に取りもどされる時の不体裁も考えてみる必要があると思ったが、その機会をはずすことはどうしても惜しいことであると考えて、翌朝は明け切らぬ間に出かけることにした。
夫人は昨夜の気持ちのままでまだ打ち解けてはいなかった。
「二条の院にぜひしなければならないことのあったのを私は思い出したから出かけます。用を済ませたらまた来ることにしましょう」
と源氏は不機嫌《ふきげん》な妻に告げて、寝室をそっと出たので、女房たちも知らなかった。自身の部屋になっているほうで直衣《のうし》などは着た。馬に乗せた惟光だけを付き添いにして源氏は大納言家へ来た。門をたたくと何の気なしに下男が門をあけた。車を静かに中へ引き込ませて、源氏の伴った惟光が妻戸をたたいて、しわぶきをすると、少納言が聞きつけて出て来た。
「来ていらっしゃるのです」
と言うと、
「女王様はやすんでいらっしゃいます。どちらから、どうしてこんなにお早く」
と少納言が言う。源氏が人の所へ通って行った帰途だと解釈しているのである。
「宮様のほうへいらっしゃるそうですから、その前にちょっと一言お話をしておきたいと思って」
と源氏が言った。
「どんなことでございましょう。まあどんなに確かなお返辞がおできになりますことやら」
少納言は笑っていた。源氏が室内へはいって行こうとするので、この人は当惑したらしい。
「不行儀に女房たちがやすんでおりまして」
「まだ女王さんはお目ざめになっていないのでしょうね。私がお起こししましょう。もう朝霧がいっぱい降る時刻だのに、寝ているというのは」
と言いながら寝室へはいる源氏を少納言は止めることもできなかった。源氏は無心によく眠っていた姫君を抱き上げて目をさまさせた。女王は父宮がお迎えにおいでになったのだと、まだまったくさめない心では思っていた。髪を撫《な》でて直したりして、
「さあ、いらっしゃい。宮様のお使いになって私が来たのですよ」
と言う声を聞いた時に姫君は驚いて、恐ろしく思うふうに見えた。
「いやですね。私だって宮様だって同じ人ですよ。鬼などであるものですか」
源氏の君が姫君をかかえて出て来た。少納言と、惟光《これみつ》と、外の女房とが、
「あ、どうなさいます」
と同時に言った。
「ここへは始終来られないから、気楽な所へお移ししようと言ったのだけれど、それには同意をなさらないで、ほかへお移りになることになったから、そちらへおいでになってはいろいろ面倒《めんどう》だから、それでなのだ。だれか一人ついておいでなさい」
こう源氏の言うのを聞いて少納言はあわててしまった。
「今日では非常に困るかと思います。宮様がお迎えにおいでになりました節、何とも申し上げようがないではございませんか。ある時間がたちましてから、ごいっしょにおなりになる御縁があるものでございましたら自然にそうなることでございましょう。まだあまりに御幼少でいらっしゃいますから。ただ今そんなことは皆の者の責任になることでございますから」
と言うと、
「じゃいい。今すぐについて来られないのなら、人はあとで来るがよい」
こんなふうに言って源氏は車を前へ寄せさせた。姫君も怪しくなって泣き出した。少納言
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