た。この訪問が目的で来たと最初言わせたので、そのあとでまた惟光がはいって行って、
「主人が自身でお見舞いにおいでになりました」
 と言った。大納言家では驚いた。
「困りましたね。近ごろは以前よりもずっと弱っていらっしゃるから、お逢いにはなれないでしょうが、お断わりするのはもったいないことですから」
 などと女房は言って、南向きの縁座敷をきれいにして源氏を迎えたのである。
「見苦しい所でございますが、せめて御厚志のお礼を申し上げませんではと存じまして、思召《おぼしめ》しでもございませんでしょうが、こんな部屋《へや》などにお通しいたしまして」
 という挨拶《あいさつ》を家の者がした。そのとおりで、意外な所へ来ているという気が源氏にはした。
「いつも御訪問をしたく思っているのでしたが、私のお願いをとっぴなものか何かのようにこちらではお扱いになるので、きまりが悪かったのです。それで自然御病気もこんなに進んでいることを知りませんでした」
 と源氏が言った。
「私は病気であることが今では普通なようになっております。しかしもうこの命の終わりに近づきましたおりから、かたじけないお見舞いを受けました喜びを自分で申し上げません失礼をお許しくださいませ。あの話は今後もお忘れになりませんでしたら、もう少し年のゆきました時にお願いいたします。一人ぼっちになりますあの子に残る心が、私の参ります道の障《さわ》りになることかと思われます」
 取り次ぎの人に尼君が言いつけている言葉が隣室であったから、その心細そうな声も絶え絶え聞こえてくるのである。
「失礼なことでございます。孫がせめてお礼を申し上げる年になっておればよろしいのでございますのに」
 とも言う。源氏は哀れに思って聞いていた。
「今さらそんな御挨拶《ごあいさつ》はなさらないでください。通り一遍な考えでしたなら、風変わりな酔狂者《すいきょうもの》と誤解されるのも構わずに、こんな御相談は続けません。どんな前生の因縁でしょうか、女王さんをちょっとお見かけいたしました時から、女王さんのことをどうしても忘れられないようなことになりましたのも不思議なほどで、どうしてもこの世界だけのことでない、約束事としか思われません」
 などと源氏は言って、また、
「自分を理解していただけない点で私は苦しんでおります。あの小さい方が何か一言お言いになるのを伺えればと思うのですが」
 と望んだ。
「それは姫君は何もご存じなしに、もうお寝《やす》みになっていまして」
 女房がこんなふうに言っている時に、向こうからこの隣室へ来る足音がして、
「お祖母《ばあ》様、あのお寺にいらっしった源氏の君が来ていらっしゃるのですよ。なぜ御覧にならないの」
 と女王は言った。女房たちは困ってしまった。
「静かにあそばせよ」
 と言っていた。
「でも源氏の君を見たので病気がよくなったと言っていらしたからよ」
 自分の覚えているそのことが役に立つ時だと女王は考えている。源氏はおもしろく思って聞いていたが、女房たちの困りきったふうが気の毒になって、聞かない顔をして、まじめな見舞いの言葉を残して去った。子供らしい子供らしいというのはほんとうだ、けれども自分はよく教えていける気がすると源氏は思ったのであった。
 翌日もまた源氏は尼君へ丁寧に見舞いを書いて送った。例のように小さくしたほうの手紙には、

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いはけなき鶴《たづ》の一声聞きしより葦間《あしま》になづむ船ぞえならぬ

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いつまでも一人の人を対象にして考えているのですよ。
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 わざわざ子供にも読めるふうに書いた源氏のこの手紙の字もみごとなものであったから、そのまま姫君の習字の手本にしたらいいと女房らは言った。源氏の所へ少納言が返事を書いてよこした。
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お見舞いくださいました本人は、今日も危《あぶな》いようでございまして、ただ今から皆で山の寺へ移ってまいるところでございます。
かたじけないお見舞いのお礼はこの世界で果たしませんでもまた申し上げる時がございましょう。
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 というのである。秋の夕べはまして人の恋しさがつのって、せめてその人に縁故のある少女を得られるなら得たいという望みが濃くなっていくばかりの源氏であった。「消えん空なき」と尼君の歌った晩春の山の夕べに見た面影が思い出されて恋しいとともに、引き取って幻滅を感じるのではないかと危《あや》ぶむ心も源氏にはあった。

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手に摘みていつしかも見ん紫の根に通ひける野辺《のべ》の若草
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 このころの源氏の歌である。
 この十月に朱雀《すざく》院へ行幸があるはずだった。その日の舞楽には貴族の子息たち、高官、殿上役人などの中の優秀な人が舞い人に選ばれていて、親王方、大臣をはじめとして音楽の素養の深い人はそのために新しい稽古《けいこ》を始めていた。それで源氏の君も多忙であった。北山の寺へも久しく見舞わなかったことを思って、ある日わざわざ使いを立てた。山からは僧都《そうず》の返事だけが来た。
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先月の二十日にとうとう姉は亡《な》くなりまして、これが人生の掟《おきて》であるのを承知しながらも悲しんでおります。
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 源氏は今さらのように人間の生命の脆《もろ》さが思われた。尼君が気がかりでならなかったらしい小女王はどうしているだろう。小さいのであるから、祖母をどんなに恋しがってばかりいることであろうと想像しながらも、自身の小さくて母に別れた悲哀も確かに覚えないなりに思われるのであった。源氏からは丁寧な弔慰品が山へ贈られたのである。そんな場合にはいつも少納言が行き届いた返事を書いて来た。
 尼君の葬式のあとのことが済んで、一家は京の邸《やしき》へ帰って来ているということであったから、それから少しあとに源氏は自身で訪問した。凄《すご》いように荒れた邸に小人数で暮らしているのであったから、小さい人などは怖《おそろ》しい気がすることであろうと思われた。以前の座敷へ迎えて少納言が泣きながら哀れな若草を語った。源氏も涙のこぼれるのを覚えた。
「宮様のお邸へおつれになることになっておりますが、お母様の御生前にいろんな冷酷なことをなさいました奥さまがいらっしゃるのでございますから、それがいっそずっとお小さいとか、また何でもおわかりになる年ごろになっていらっしゃるとかすればいいのでございますが、中途|半端《はんぱ》なお年で、おおぜいお子様のいらっしゃる中で軽い者にお扱われになることになってはと、尼君も始終それを苦労になさいましたが、宮様のお内のことを聞きますと、まったく取り越し苦労でなさそうなんでございますから、あなた様のお気まぐれからおっしゃってくださいますことも、遠い将来にまでにはたとえどうなりますにしましても、お救いの手に違いないと私どもは思われますが、奥様になどとは想像も許されませんようなお子供らしさでございまして、普通のあの年ごろよりももっともっと赤様《あかさま》なのでございます」
 と少納言が言った。
「そんなことはどうでもいいじゃありませんか、私が繰り返し繰り返しこれまで申し上げてあることをなぜ無視しようとなさるのですか。その幼稚な方を私が好きでたまらないのは、こればかりは前生《ぜんしょう》の縁に違いないと、それを私が客観的に見ても思われます。許してくだすって、この心持ちを直接女王さんに話させてくださいませんか。

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あしわかの浦にみるめは難《かた》くともこは立ちながら帰る波かは
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 私をお見くびりになってはいけません」
 源氏がこう言うと、
「それはもうほんとうにもったいなく思っているのでございます。

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寄る波の心も知らで和歌の浦に玉藻《たまも》なびかんほどぞ浮きたる
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 このことだけは御信用ができませんけれど」
 物|馴《な》れた少納言の応接のしように、源氏は何を言われても不快には思われなかった。「年を経てなど越えざらん逢坂《あふさか》の関」という古歌を口ずさんでいる源氏の美音に若い女房たちは酔ったような気持ちになっていた。女王は今夜もまた祖母を恋しがって泣いていた時に、遊び相手の童女が、
「直衣《のうし》を着た方が来ていらっしゃいますよ。宮様が来ていらっしゃるのでしょう」
 と言ったので、起きて来て、
「少納言、直衣着た方どちら、宮様なの」
 こう言いながら乳母《めのと》のそばへ寄って来た声がかわいかった。これは父宮ではなかったが、やはり深い愛を小女王に持つ源氏であったから、心がときめいた。
「こちらへいらっしゃい」
 と言ったので、父宮でなく源氏の君であることを知った女王は、さすがにうっかりとしたことを言ってしまったと思うふうで、乳母のそばへ寄って、
「さあ行こう。私は眠いのだもの」
 と言う。
「もうあなたは私に御遠慮などしないでもいいんですよ。私の膝《ひざ》の上へお寝《やす》みなさい」
 と源氏が言った。
「お話しいたしましたとおりでございましょう。こんな赤様なのでございます」
 乳母に源氏のほうへ押し寄せられて、女王はそのまま無心にすわっていた。源氏が御簾《みす》の下から手を入れて探ってみると柔らかい着物の上に、ふさふさとかかった端の厚い髪が手に触れて美しさが思いやられるのである。手をとらえると、父宮でもない男性の近づいてきたことが恐ろしくて、
「私、眠いと言っているのに」
 と言って手を引き入れようとするのについて源氏は御簾の中へはいって来た。
「もう私だけがあなたを愛する人なんですよ。私をお憎みになってはいけない」
 源氏はこう言っている。少納言が、
「よろしくございません。たいへんでございます。お話しになりましても何の効果《ききめ》もございませんでしょうのに」
 と困ったように言う。
「いくら何でも私はこの小さい女王さんを情人にしようとはしない。まあ私がどれほど誠実であるかを御覧なさい」
 外には霙《みぞれ》が降っていて凄《すご》い夜である。
「こんなに小人数でこの寂しい邸《やしき》にどうして住めるのですか」
 と言って源氏は泣いていた。捨てて帰って行けない気がするのであった。
「もう戸をおろしておしまいなさい。こわいような夜だから、私が宿直《とのい》の男になりましょう。女房方は皆|女王《にょおう》さんの室へ来ていらっしゃい」
 と言って、馴《な》れたことのように女王さんを帳台の中へ抱いてはいった。だれもだれも意外なことにあきれていた。乳母は心配をしながらも普通の闖入者《ちんにゅうしゃ》を扱うようにはできぬ相手に歎息《たんそく》をしながら控えていた。小女王は恐ろしがってどうするのかと慄《ふる》えているので肌《はだ》も毛穴が立っている。かわいく思う源氏はささやかな異性を単衣《ひとえ》に巻きくるんで、それだけを隔てに寄り添っていた。この所作がわれながら是認しがたいものとは思いながらも愛情をこめていろいろと話していた。
「ねえ、いらっしゃいよ、おもしろい絵がたくさんある家で、お雛《ひな》様遊びなんかのよくできる私の家《うち》へね」
 こんなふうに小さい人の気に入るような話をしてくれる源氏の柔らかい調子に、姫君は恐ろしさから次第に解放されていった。しかし不気味であることは忘れずに、眠り入ることはなくて身じろぎしながら寝ていた。この晩は夜通し風が吹き荒れていた。
「ほんとうにお客様がお泊まりにならなかったらどんなに私たちは心細かったでしょう。同じことなら女王様がほんとうの御結婚のできるお年であればね」
 などと女房たちはささやいていた。心配でならない乳母は帳台の近くに侍していた。風の少し吹きやんだ時はまだ暗かったが、帰る源氏はほんとうの恋人のもとを別れて行く情景に似ていた。
「かわいそうな女王さんとこんなに親しくなってしまった以上、私はしばらくの間
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