若い人こそ困るだろうが私など、まあよい。丁寧に言っていらっしゃるのだから」
 尼君は出て行った。
「出来心的な軽率な相談を持ちかける者だとお思いになるのがかえって当然なような、こんな時に申し上げるのは私のために不利なんですが、誠意をもってお話しいたそうとしておりますことは仏様がご存じでしょう」
 と源氏は言ったが、相当な年配の貴女が静かに前にいることを思うと急に希望の件が持ち出されないのである。
「思いがけぬ所で、お泊まり合わせになりました。あなた様から御相談を承りますのを前生《ぜんしょう》に根を置いていないこととどうして思えましょう」
 と尼君は言った。
「お母様をお亡《な》くしになりましたお気の毒な女王さんを、お母様の代わりとして私へお預けくださいませんでしょうか。私も早く母や祖母に別れたものですから、私もじっと落ち着いた気持ちもなく今日に至りました。女王さんも同じような御境遇なんですから、私たちが将来結婚することを今から許して置いていただきたいと、私はこんなことを前から御相談したかったので、今は悪くおとりになるかもしれない時である、折《お》りがよろしくないと思いながら申し上げてみます」
「それは非常にうれしいお話でございますが、何か話をまちがえて聞いておいでになるのではないかと思いますと、どうお返辞を申し上げてよいかに迷います。私のような者一人をたよりにしております子供が一人おりますが、まだごく幼稚なもので、どんなに寛大なお心ででも、将来の奥様にお擬しになることは無理でございますから、私のほうで御相談に乗せていただきようもございません」
 と尼君は言うのである。
「私は何もかも存じております。そんな年齢の差などはお考えにならずに、私がどれほどそうなるのを望むかという熱心の度を御覧ください」
 源氏がこんなに言っても、尼君のほうでは女王の幼齢なことを知らないでいるのだと思う先入見があって源氏の希望を問題にしようとはしない。僧都《そうず》が源氏の部屋《へや》のほうへ来るらしいのを機会に、
「まあよろしいです。御相談にもう取りかかったのですから、私は実現を期します」
 と言って、源氏は屏風《びょうぶ》をもとのように直して去った。もう明け方になっていた。法華《ほっけ》の三昧《ざんまい》を行なう堂の尊い懺法《せんぽう》の声が山おろしの音に混じり、滝がそれらと和する響きを作っているのである。

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吹き迷ふ深山《みやま》おろしに夢さめて涙催す滝の音かな
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 これは源氏の作。

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「さしぐみに袖|濡《ぬ》らしける山水にすめる心は騒ぎやはする
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 もう馴《な》れ切ったものですよ」
 と僧都は答えた。
 夜明けの空は十二分に霞んで、山の鳥声がどこで啼《な》くとなしに多く聞こえてきた。都人《みやこびと》には名のわかりにくい木や草の花が多く咲き多く地に散っていた。こんな深山の錦《にしき》の上へ鹿《しか》が出て来たりするのも珍しいながめで、源氏は病苦からまったく解放されたのである。聖人は動くことも容易でない老体であったが、源氏のために僧都の坊へ来て護身の法を行なったりしていた。嗄々《かれがれ》な所々が消えるような声で経を読んでいるのが身にしみもし、尊くも思われた。経は陀羅尼《だらに》である。
 京から源氏の迎えの一行が山へ着いて、病気の全快された喜びが述べられ、御所のお使いも来た。僧都は珍客のためによい菓子を種々《くさぐさ》作らせ、渓間《たにま》へまでも珍しい料理の材料を求めに人を出して饗応《きょうおう》に骨を折った。
「まだ今年じゅうは山籠《やまごも》りのお誓いがしてあって、お帰りの際に京までお送りしたいのができませんから、かえって御訪問が恨めしく思われるかもしれません」
 などと言いながら僧都は源氏に酒をすすめた。
「山の風景に十分愛着を感じているのですが、陛下に御心配をおかけ申すのももったいないことですから、またもう一度、この花の咲いているうちに参りましょう、

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宮人に行きて語らん山ざくら風よりさきに来ても見るべく」
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 歌の発声も態度もみごとな源氏であった。僧都が、

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優曇華《うどんげ》の花まち得たるここちして深山《みやま》桜に目こそ移らね
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 と言うと源氏は微笑しながら、
「長い間にまれに一度咲くという花は御覧になることが困難でしょう。私とは違います」
 と言っていた。巌窟《がんくつ》の聖人《しょうにん》は酒杯を得て、

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奥山の松の戸ぼそを稀《まれ》に開《あ》けてまだ見ぬ花の顔を見るかな
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 と言って泣きながら源氏をながめていた。聖人は源氏を護《まも》る法のこめられてある独鈷《どっこ》を献上した。それを見て僧都は聖徳太子が百済《くだら》の国からお得になった金剛子《こんごうし》の数珠《じゅず》に宝玉の飾りのついたのを、その当時のいかにも日本の物らしくない箱に入れたままで薄物の袋に包んだのを五葉の木の枝につけた物と、紺瑠璃《こんるり》などの宝石の壺《つぼ》へ薬を詰めた幾個かを藤《ふじ》や桜の枝につけた物と、山寺の僧都の贈り物らしい物を出した。源氏は巌窟の聖人をはじめとして、上の寺で経を読んだ僧たちへの布施の品々、料理の詰め合わせなどを京へ取りにやってあったので、それらが届いた時、山の仕事をする下級労働者までが皆相当な贈り物を受けたのである。なお僧都の堂で誦経《ずきょう》をしてもらうための寄進もして、山を源氏の立って行く前に、僧都は姉の所に行って源氏から頼まれた話を取り次ぎしたが、
「今のところでは何ともお返辞の申しようがありません。御縁がもしありましたならもう四、五年して改めておっしゃってくだすったら」
 と尼君は言うだけだった。源氏は前夜聞いたのと同じような返辞を僧都から伝えられて自身の気持ちの理解されないことを歎《なげ》いた。手紙を僧都の召使の小童に持たせてやった。

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夕まぐれほのかに花の色を見て今朝《けさ》は霞の立ちぞわづらふ
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 という歌である。返歌は、

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まことにや花のほとりは立ち憂《う》きと霞《かす》むる空のけしきをも見ん
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 こうだった。貴女《きじょ》らしい品のよい手で飾りけなしに書いてあった。
 ちょうど源氏が車に乗ろうとするころに、左大臣家から、どこへ行くともなく源氏が京を出かけて行ったので、その迎えとして家司《けいし》の人々や、子息たちなどがおおぜい出て来た。頭中将《とうのちゅうじょう》、左中弁《さちゅうべん》またそのほかの公達《きんだち》もいっしょに来たのである。
「こうした御旅行などにはぜひお供をしようと思っていますのに、お知らせがなくて」
 などと恨んで、
「美しい花の下で遊ぶ時間が許されないですぐにお帰りのお供をするのは惜しくてならないことですね」
 とも言っていた。岩の横の青い苔《こけ》の上に新しく来た公達は並んで、また酒盛りが始められたのである。前に流れた滝も情趣のある場所だった。頭中将は懐《ふところ》に入れてきた笛を出して吹き澄ましていた。弁は扇拍子をとって、「葛城《かつらぎ》の寺の前なるや、豊浦《とよら》の寺の西なるや」という歌を歌っていた。この人たちは決して平凡な若い人ではないが、悩ましそうに岩へよりかかっている源氏の美に比べてよい人はだれもなかった。いつも篳篥《ひちりき》を吹く役にあたる随身がそれを吹き、またわざわざ笙《しょう》の笛を持ち込んで来た風流好きもあった。僧都が自身で琴《きん》(七|絃《げん》の唐風の楽器)を運んで来て、
「これをただちょっとだけでもお弾《ひ》きくだすって、それによって山の鳥に音楽の何であるかを知らせてやっていただきたい」
 こう熱望するので、
「私はまだ病気に疲れていますが」
 と言いながらも、源氏が快く少し弾いたのを最後として皆帰って行った。名残《なごり》惜しく思って山の僧俗は皆涙をこぼした。家の中では年を取った尼君主従がまだ源氏のような人に出逢《であ》ったことのない人たちばかりで、その天才的な琴の音をも現実の世のものでないと評し合った。僧都も、
「何の約束事でこんな末世にお生まれになって人としてのうるさい束縛や干渉をお受けにならなければならないかと思ってみると悲しくてならない」
 と源氏の君のことを言って涙をぬぐっていた。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮の姫君は子供心に美しい人であると思って、
「宮様よりも御様子がごりっぱね」
 などとほめていた。
「ではあの方のお子様におなりなさいまし」
 と女房が言うとうなずいて、そうなってもよいと思う顔をしていた。それからは人形遊びをしても絵をかいても源氏の君というのをこしらえて、それにはきれいな着物を着せて大事がった。
 帰京した源氏はすぐに宮中へ上がって、病中の話をいろいろと申し上げた。ずいぶん痩《や》せてしまったと仰せられて帝《みかど》はそれをお気におかけあそばされた。聖人の尊敬すべき祈祷《きとう》力などについての御下問もあったのである。詳しく申し上げると、
「阿闍梨《あじゃり》にもなっていいだけの資格がありそうだね。名誉を求めないで修行一方で来た人なんだろう。それで一般人に知られなかったのだ」
 と敬意を表しておいでになった。左大臣も御所に来合わせていて、
「私もお迎えに参りたく思ったのですが、御微行《おしのび》の時にはかえって御迷惑かとも思いまして遠慮をしました。しかしまだ一日二日は静かにお休みになるほうがよろしいでしょう」
 と言って、また、
「ここからのお送りは私がいたしましょう」
 とも言ったので、その家へ行きたい気もなかったが、やむをえず源氏は同道して行くことにした。自分の車へ乗せて大臣自身はからだを小さくして乗って行ったのである。娘のかわいさからこれほどまでに誠意を見せた待遇を自分にしてくれるのだと思うと、大臣の親心なるものに源氏は感動せずにはいられなかった。
 こちらへ退出して来ることを予期した用意が左大臣家にできていた。しばらく行って見なかった源氏の目に美しいこの家がさらに磨き上げられた気もした。源氏の夫人は例のとおりにほかの座敷へはいってしまって出て来ようとしない。大臣がいろいろとなだめてやっと源氏と同席させた。絵にかいた何かの姫君というようにきれいに飾り立てられていて、身動きすることも自由でないようにきちんとした妻であったから、源氏は、山の二日の話をするとすればすぐに同感を表してくれるような人であれば情味が覚えられるであろう、いつまでも他人に対する羞恥《しゅうち》と同じものを見せて、同棲《どうせい》の歳月は重なってもこの傾向がますます目だってくるばかりであると思うと苦しくて、
「時々は普通の夫婦らしくしてください。ずいぶん病気で苦しんだのですから、どうだったかというぐらいは問うてくだすっていいのに、あなたは問わない。今はじめてのことではないが私としては恨めしいことですよ」
 と言った。
「問われないのは恨めしいものでしょうか」
 こう言って横に源氏のほうを見た目つきは恥ずかしそうで、そして気高《けだか》い美が顔に備わっていた。
「たまに言ってくださることがそれだ。情けないじゃありませんか。訪うて行かぬなどという間柄は、私たちのような神聖な夫婦の間柄とは違うのですよ。そんなことといっしょにして言うものじゃありません。時がたてばたつほどあなたは私を露骨に軽蔑《けいべつ》するようになるから、こうすればあなたの心持ちが直るか、そうしたら効果《ききめ》があるだろうかと私はいろんな試みをしているのですよ。そうすればするほどあなたはよそよそしくなる。まあいい。長い命さえあればよくわかってもらえるでしょう」
 と言って源氏は寝室のほうへはいったが、夫人はそのままもと
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