わった。尼君は女の子の髪をなでながら、
「梳《す》かせるのもうるさがるけれどよい髪だね。あなたがこんなふうにあまり子供らしいことで私は心配している。あなたの年になればもうこんなふうでない人もあるのに、亡《な》くなったお姫さんは十二でお父様に別れたのだけれど、もうその時には悲しみも何もよくわかる人になっていましたよ。私が死んでしまったあとであなたはどうなるのだろう」
 あまりに泣くので隙見《すきみ》をしている源氏までも悲しくなった。子供心にもさすがにじっとしばらく尼君の顔をながめ入って、それからうつむいた。その時に額からこぼれかかった髪がつやつやと美しく見えた。

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生《お》ひ立たんありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えんそらなき
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 一人の中年の女房が感動したふうで泣きながら、

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初草の生ひ行く末も知らぬまにいかでか露の消えんとすらん
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 と言った。この時に僧都《そうず》が向こうの座敷のほうから来た。
「この座敷はあまり開《あ》けひろげ過ぎています。今日に限ってこんなに端のほうにおいでになったのですね。山の上の聖人の所へ源氏の中将が瘧病《わらわやみ》のまじないにおいでになったという話を私は今はじめて聞いたのです。ずいぶん微行でいらっしゃったので私は知らないで、同じ山にいながら今まで伺候もしませんでした」
 と僧都は言った。
「たいへん、こんな所をだれか御一行の人がのぞいたかもしれない」
 尼君のこう言うのが聞こえて御簾《みす》はおろされた。
「世間で評判の源氏の君のお顔を、こんな機会に見せていただいたらどうですか、人間生活と絶縁している私らのような僧でも、あの方のお顔を拝見すると、世の中の歎《なげ》かわしいことなどは皆忘れることができて、長生きのできる気のするほどの美貌《びぼう》ですよ。私はこれからまず手紙で御挨拶《ごあいさつ》をすることにしましょう」
 僧都がこの座敷を出て行く気配《けはい》がするので源氏も山上の寺へ帰った。源氏は思った。自分は可憐な人を発見することができた、だから自分といっしょに来ている若い連中は旅というものをしたがるのである、そこで意外な収穫を得るのだ、たまさかに京を出て来ただけでもこんな思いがけないことがあると、それで源氏はうれしかった。それにしても美しい子である、どんな身分の人なのであろう、あの子を手もとに迎えて逢《あ》いがたい人の恋しさが慰められるものならぜひそうしたいと源氏は深く思ったのである。
 寺で皆が寝床についていると、僧都の弟子《でし》が訪問して来て、惟光《これみつ》に逢いたいと申し入れた。狭い場所であったから惟光へ言う事が源氏にもよく聞こえた。
「手前どもの坊の奥の寺へおいでになりましたことを人が申しますのでただ今承知いたしました。すぐに伺うべきでございますが、私がこの山におりますことを御承知のあなた様が素通りをあそばしたのは、何かお気に入らないことがあるかと御遠慮をする心もございます。御宿泊の設けも行き届きませんでも当坊でさせていただきたいものでございます」
 と言うのが使いの伝える僧都の挨拶だった。
「今月の十幾日ごろから私は瘧病《わらわやみ》にかかっておりましたが、たびたびの発作で堪えられなくなりまして、人の勧めどおりに山へ参ってみましたが、もし効験《ききめ》が見えませんでした時には一人の僧の不名誉になることですから、隠れて来ておりました。そちらへも後刻伺うつもりです」
 と源氏は惟光に言わせた。それから間もなく僧都が訪問して来た。尊敬される人格者で、僧ではあるが貴族出のこの人に軽い旅装で逢うことを源氏はきまり悪く思った。二年越しの山籠《やまごも》りの生活を僧都は語ってから、
「僧の家というものはどうせ皆寂しい貧弱なものですが、ここよりは少しきれいな水の流れなども庭にはできておりますから、お目にかけたいと思うのです」
 僧都は源氏の来宿を乞《こ》うてやまなかった。源氏を知らないあの女の人たちにたいそうな顔の吹聴《ふいちょう》などをされていたことを思うと、しりごみもされるのであるが、心を惹《ひ》いた少女のことも詳しく知りたいと思って源氏は僧都の坊へ移って行った。主人の言葉どおりに庭の作り一つをいってもここは優美な山荘であった、月はないころであったから、流れのほとりに篝《かがり》を焚《た》かせ、燈籠《とうろう》を吊《つ》らせなどしてある。南向きの室を美しく装飾して源氏の寝室ができていた。奥の座敷から洩《も》れてくる薫香《くんこう》のにおいと仏前に焚かれる名香の香が入り混じって漂っている山荘に、新しく源氏の追い風が加わったこの夜を女たちも晴れがましく思った。
 僧都は人世の無常さと来世の頼もしさを源氏に説いて聞かせた。源氏は自身の罪の恐ろしさが自覚され、来世で受ける罰の大きさを思うと、そうした常ない人生から遠ざかったこんな生活に自分もはいってしまいたいなどと思いながらも、夕方に見た小さい貴女《きじょ》が心にかかって恋しい源氏であった。
「ここへ来ていらっしゃるのはどなたなんですか、その方たちと自分とが因縁のあるというような夢を私は前に見たのですが、なんだか今日こちらへ伺って謎《なぞ》の糸口を得た気がします」
 と源氏が言うと、
「突然な夢のお話ですね。それがだれであるかをお聞きになっても興がおさめになるだけでございましょう。前の按察使《あぜち》大納言はもうずっと早く亡《な》くなったのでございますからご存じはありますまい。その夫人が私の姉です。未亡人になってから尼になりまして、それがこのごろ病気なものですから、私が山にこもったきりになっているので心細がってこちらへ来ているのです」
 僧都の答えはこうだった。
「その大納言にお嬢さんがおありになるということでしたが、それはどうなすったのですか。私は好色から伺うのじゃありません、まじめにお尋ね申し上げるのです」
 少女は大納言の遺子であろうと想像して源氏が言うと、
「ただ一人娘がございました。亡くなりましてもう十年余りになりますでしょうか、大納言は宮中へ入れたいように申して、非常に大事にして育てていたのですがそのままで死にますし、未亡人が一人で育てていますうちに、だれがお手引きをしたのか兵部卿《ひょうぶきょう》の宮が通っていらっしゃるようになりまして、それを宮の御本妻はなかなか権力のある夫人で、やかましくお言いになって、私の姪《めい》はそんなことからいろいろ苦労が多くて、物思いばかりをしたあげく亡くなりました。物思いで病気が出るものであることを私は姪を見てよくわかりました」
 などと僧都は語った。それではあの少女は昔の按察使大納言の姫君と兵部卿の宮の間にできた子であるに違いないと源氏は悟ったのである。藤壺の宮の兄君の子であるがためにその人に似ているのであろうと思うといっそう心の惹《ひ》かれるのを覚えた。身分のきわめてよいのがうれしい、愛する者を信じようとせずに疑いの多い女でなく、無邪気な子供を、自分が未来の妻として教養を与えていくことは楽しいことであろう、それを直ちに実行したいという心に源氏はなった。
「お気の毒なお話ですね。その方には忘れ形見がなかったのですか」
 なお明確に少女のだれであるかを知ろうとして源氏は言うのである。
「亡くなりますころに生まれました。それも女です。その子供が姉の信仰生活を静かにさせません。姉は年を取ってから一人の孫娘の将来ばかりを心配して暮らしております」
 聞いている話に、夕方見た尼君の涙を源氏は思い合わせた。
「妙なことを言い出すようですが、私にその小さいお嬢さんを、託していただけないかとお話ししてくださいませんか。私は妻について一つの理想がありまして、ただ今結婚はしていますが、普通の夫婦生活なるものは私に重荷に思えまして、まあ独身もののような暮らし方ばかりをしているのです。まだ年がつり合わぬなどと常識的に判断をなすって、失礼な申し出だと思召《おぼしめ》すでしょうか」
 と源氏は言った。
「それは非常に結構なことでございますが、まだまだとても幼稚なものでございますから、仮にもお手もとへなど迎えていただけるものではありません。まあ女というものは良人《おっと》のよい指導を得て一人前になるものなのですから、あながち早過ぎるお話とも何とも私は申されません。子供の祖母と相談をいたしましてお返辞をするといたしましょう」
 こんなふうにてきぱき言う人が僧形《そうぎょう》の厳《いか》めしい人であるだけ、若い源氏には恥ずかしくて、望んでいることをなお続けて言うことができなかった。
「阿弥陀《あみだ》様がいらっしゃる堂で用事のある時刻になりました。初夜の勤めがまだしてございません。済ませましてまた」
 こう言って僧都は御堂《みどう》のほうへ行った。
 病後の源氏は気分もすぐれなかった。雨がすこし降り冷ややかな山風が吹いてそのころから滝の音も強くなったように聞かれた。そしてやや眠そうな読経《どきょう》の声が絶え絶えに響いてくる、こうした山の夜はどんな人にも物悲しく寂しいものであるが、まして源氏はいろいろな思いに悩んでいて、眠ることはできないのであった。初夜だと言ったが実際はその時刻よりも更《ふ》けていた。奥のほうの室にいる人たちも起きたままでいるのが気配《けはい》で知れていた。静かにしようと気を配っているらしいが、数珠《じゅず》が脇息《きょうそく》に触れて鳴る音などがして、女の起居《たちい》の衣摺《きぬず》れもほのかになつかしい音に耳へ通ってくる。貴族的なよい感じである。
 源氏はすぐ隣の室でもあったからこの座敷の奥に立ててある二つの屏風《びょうぶ》の合わせ目を少し引きあけて、人を呼ぶために扇を鳴らした。先方は意外に思ったらしいが、無視しているように思わせたくないと思って、一人の女が膝行《いざり》寄って来た。襖子《からかみ》から少し遠いところで、
「不思議なこと、聞き違えかしら」
 と言うのを聞いて、源氏が、
「仏の導いてくださる道は暗いところもまちがいなく行きうるというのですから」
 という声の若々しい品のよさに、奥の女は答えることもできない気はしたが、
「何のお導きでございましょう、こちらでは何もわかっておりませんが」
 と言った。
「突然ものを言いかけて、失敬だとお思いになるのはごもっともですが、

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初草の若葉の上を見つるより旅寝の袖《そで》も露ぞ乾《かわ》かぬ
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 と申し上げてくださいませんか」
「そのようなお言葉を頂戴《ちょうだい》あそばす方がいらっしゃらないことはご存じのようですが、どなたに」
「そう申し上げるわけがあるのだとお思いになってください」
 源氏がこう言うので、女房は奥へ行ってそう言った。
 まあ艶《えん》な方らしい御挨拶である、女王《にょおう》さんがもう少し大人になっているように、お客様は勘違いをしていられるのではないか、それにしても若草にたとえた言葉がどうして源氏の耳にはいったのであろうと思って、尼君は多少不安な気もするのである。しかし返歌のおそくなることだけは見苦しいと思って、

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「枕《まくら》結《ゆ》ふ今宵《こよひ》ばかりの露けさを深山《みやま》の苔《こけ》にくらべざらなん
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 とてもかわく間などはございませんのに」
 と返辞をさせた。
「こんなお取り次ぎによっての会談は私に経験のないことです。失礼ですが、今夜こちらで御厄介《ごやっかい》になりましたのを機会にまじめに御相談のしたいことがございます」
 と源氏が言う。
「何をまちがえて聞いていらっしゃるのだろう。源氏の君にものを言うような晴れがましいこと、私には何もお返辞なんかできるものではない」
 尼君はこう言っていた。
「それでも冷淡なお扱いをするとお思いになるでございましょうから」
 と言って、人々は尼君の出るのを勧めた。
「そうだね、
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