れて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀《こおろぎ》でさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていなかったが、ここではどの虫も耳のそばへとまって鳴くような風変わりな情趣だと源氏が思うのも、夕顔を深く愛する心が何事も悪くは思わせないのであろう。白い袷《あわせ》に柔らかい淡紫《うすむらさき》を重ねたはなやかな姿ではない、ほっそりとした人で、どこかきわだって非常によいというところはないが繊細な感じのする美人で、ものを言う様子に弱々しい可憐《かれん》さが十分にあった。才気らしいものを少しこの人に添えたらと源氏は批評的に見ながらも、もっと深くこの人を知りたい気がして、
「さあ出かけましょう。この近くのある家へ行って、気楽に明日《あす》まで話しましょう。こんなふうでいつも暗い間に別れていかなければならないのは苦しいから」
 と言うと、
「どうしてそんなに急なことをお言い出しになりますの」
 おおように夕顔は言っていた。変わらぬ恋を死後の世界にまで続けようと源氏の誓うのを見ると何の疑念もはさまずに信じてよろこぶ様子などのうぶさは、一度結婚した経験のある女とは思えないほど可憐であった。源氏はもうだれの思わくもはばかる気がなくなって、右近《うこん》に随身を呼ばせて、車を庭へ入れることを命じた。夕顔の女房たちも、この通う男が女主人を深く愛していることを知っていたから、だれともわからずにいながら相当に信頼していた。
 ずっと明け方近くなってきた。この家に鶏《とり》の声は聞こえないで、現世|利益《りやく》の御岳教《みたけきょう》の信心なのか、老人らしい声で、起《た》ったりすわったりして、とても忙しく苦しそうにして祈る声が聞かれた。源氏は身にしむように思って、朝露と同じように短い命を持つ人間が、この世に何の慾《よく》を持って祈祷《きとう》などをするのだろうと聞いているうちに、
「南無《なむ》当来の導師」
 と阿弥陀如来《あみだにょらい》を呼びかけた。
「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」
 とほめて、

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優婆塞《うばそく》が行なふ道をしるべにて来ん世も深き契りたがふな
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 とも言った。玄宗《げんそう》と楊貴妃《ようきひ》の七月七日の長生殿の誓いは実現されない空想であったが、五十六億七千万年後の弥勒菩薩《みろくぼさつ》出現の世
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