語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋《いか》った。が、直《じき》にまた悲痛な顔になって堪《こら》え涙《なみだ》をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中《うち》に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪《た》えなくなったのである。
 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違《まちが》うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだ暮《く》れたばかりの初夏《しょか》の谷中《やなか》の風は上野つづきだけに涼《すず》しく心よかった。ごく懇意《こんい》でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚《どうりょう》の中村の家を訪《と》い、その細君に立話しをして、中村に吾家《うち》へ遊びに来てもらうことを請《こ》うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるような事がお有りのはずに、チラと承りました、しかし宅《たく》は必ず伺《うかが》わせますよう致《いた》しましょう、と請合《うけあ》ってくれた。同じ立場に在る者は同じような感情を懐《いだ》いて互によく理解し合うものであるから、中村の細君が一も二も無く若崎の細君の云う通りになってくれたのでもあろうが、一つには平常《いつも》同じような身分の出というところからごくごく両家が心安くし合い、また一つには若崎が多くは常に中村の原型によってこれを鋳《い》ることをする芸術上の兄弟分《きょうだいぶん》のような関係から、自然と離《はな》れ難《がた》き仲になっていた故もあったろう。若崎の細君《さいくん》はいそいそとして帰った。

     ○

 顔も大きいが身体《からだ》も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚《あごひげ》上髭《うわひげ》頬髯《ほおひげ》を無遠慮《ぶえんりょ》に生《は》やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚《おうよう》にまださほどは居ぬ蚊《か》を吾家《うち》から提《さ》げた大きな雅《が》な団扇《うちわ》で緩《ゆる》く払《はら》いながら、逼《せま》らぬ気味合《きみあい》で眼のまわりに皺《しわ》を湛《たた》えつつも、何か話すところは実に堂々として、どうしても兄分である。そしてまたこの家《や》の主人に対して先輩《せんぱい》たる情愛と貫禄《かんろく》とをもって臨んでいる綽々《しゃくしゃく》として余裕《よゆう》ある態度は、いかにもここの細君をしてその来訪を需《もと》めさせただけのことは有る。これに対座している主人は痩形《やせがた》小づくりというほどでも無いが対手《あいて》が対手だけに、まだ幅《はば》が足らぬように見える。しかしよしや大智深智《だいちしんち》でないまでも、相応に鋭《するど》い智慧《ちえ》才覚が、恐《おそ》ろしい負けぬ気を後盾《うしろだて》にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰《おしつぶ》されぬもののあることを思わせる。
 客は無雑作《むぞうさ》に、
「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも無いのですから、まわり気《ぎ》の苦労はなさらないでいいのですヨ。おめでたいことじゃありませんかネ、ハハハ。」
と朗《ほがら》かに笑った。ここの細君は今はもう暗雲を一掃《いっそう》されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風《たいふう》の吹《ふ》いた後の心持で、主客の間の茶盆《ちゃぼん》の位置をちょっと直しながら、軽く頭《かしら》を下げて、
「イエもう、業《わざ》の上の工夫《くふう》に惚《ほ》げていたと解りますれば何のこともございません。ホントにこの人は今までに随分こんなこともございましたッけ。」
と云った。客と主人との間の話で、今日学校で主人が校長から命ぜられた、それは一週間ばかり後に天子様が学校へご臨幸《りんこう》下さる、その折に主人が御前《ごぜん》で製作をしてご覧《らん》に入れるよう、そしてその製品を直《ただち》に、学校から献納《けんのう》し、お持帰りいただくということだったのが、解ったのであった。それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明《ぶんみょう》したから、細君は憂《うれい》を転《てん》じて喜と為《な》し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭《かげ》で分ったと、上機嫌になったのであった。
 女は上機嫌になると、とかくに下ら
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