調子合《ちょうしあい》だ。妙《みょう》なところに夫は坐《すわ》り込《こ》んだ。細工場《さいくば》、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端《はし》、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色《かおいろ》が冴《さ》えない、気が何かに粘《ねば》っている。自分に対して甚しく憎悪《ぞうお》でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、
「どうかなさいましたか。」
と訊《き》く。返辞が無い。
「気色《きしょく》が悪いのじゃなくて。」
とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、
「何とも無い。」
 附《つ》き穂《ほ》が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違《ちが》い無い。内《うち》の人の身分が好《よ》くなり、交際《こうさい》が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気《おんなぎ》の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑《うたぐ》ったが、どうもそうでも無いらしい。
 定《き》まって晩酌《ばんしゃく》を取るというのでもなく、もとより謹直《きんちょく》倹約《けんやく》の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌《きら》いなのではあるが、それでも少し飲むと賑《にぎ》やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、
「晩には何か取りまして、ひさしぶりで一本あげましょうか。」
と云った。近来|大《おおい》に進歩して、細君はこの提議《ていぎ》をしたのである。ところが、
「なぜサ。」
と善良な夫は反問の言外に明らかにそんなことはせずとよいと否定《ひてい》してしまった。是非《ぜひ》も無い、簡素《かんそ》な晩食《ばんしょく》は平常《いつも》の通りに済《す》まされたが、主人の様子は平常《いつも》の通りでは無かった。激《げき》しているのでも無く、怖《おそ》れているのでも無いらしい。が、何かと談話《だんわ》をしてその糸口《いとぐち》を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠《そうこう》の妻たる夫思いの細君はついに堪《こら》えかねて、真正面から、
「あなたは今日はどうかなさったの。」
と逼《せま》って訊いた。
「どうもしない。」
「だって。……わたしの事?」
「ナーニ。」
「それならお勤先の事?」
「ウウ、マアそうサ。」
「マアそうサなんて、変な仰《おっしゃ》り様《よう》ネ。どういうこと?」
「…………」
「辞職?」
と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出《で》が異《ちが》っていて、肌合《はだあい》の職人風のところが引装《ひきつくろ》わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映《うつ》りの悪いことである。それを仲の好い二人《ふたり》が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたからである。
「ナーニ。」
「免職《めんしょく》? 御《お》さとし免職ってことが有るってネ。もしか免職なんていうんなら、わたしゃ聴《き》きやしない。あなたなんか、ヤイヤイ云われて貰《もら》われたレッキとした堅気《かたぎ》のお嬢《じょう》さんみたようなもので、それを免職と云えば無理|離縁《りえん》のようなものですからネ。」
「誰も免職とも何とも云ってはいないよ。お先ッ走り! うるさいネ。」
「そんならどうしたの? 誰か高慢《こうまん》チキな意地悪と喧嘩《けんか》でもしたの。」
「イイヤ。」
「そんなら……」
「うるさいね。」
「だって……」
「うるさいッ。」
「オヤ、けんどんですネ、人が一生懸命《いっしょうけんめい》になって訊《き》いてるのに。何でそんなに沈んでいるのです?」
「別に沈んじゃいない。」
「イイエ、沈んでいます。かわいそうに。何でそんなに。」
「かわいそうに、は好かったネ、ハハハハ。」
「人をはぐらかすものじゃありませんよ。ホン気になっているものを。サ、なんで、そんなに……。なんでですよ。」
「ひとりでにカなア。」
「マア! 何も隠《かく》さなくったッていいじゃありませんか。どういう入《い》※[#小書き片仮名リ、1−6−91]訳《わけ》なんですか聴かせて下さい。実はコレコレとネ。女だって、わたしあ、あなたの忠臣《ちゅうしん》じゃありませんか。」
 忠臣という言葉は少し奇異《きい》に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃《じょうるり》なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、
「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべの知る事ならずサ。」
 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然《ぐうぜん》に用いた
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