たりするのだネ。
彼はまた黙った。
今日も鮒を一|尾《ぴき》ばかり持って帰ったら叱られやしないかネ。
彼は黯然《あんぜん》とした顔になったが、やはり黙っていた。その黙っているところがかえって自分の胸の中《うち》に強い衝動を与えた。
お父《とっ》さんはいるのかい。
ウン、いるよ。
何をしているのだい。
毎日|亀有《かめあり》の方へ通って仕事している。
土工かあるいはそれに類した事をしているものと想像された。
お前のお母《っか》さんは亡くなったのだネ。
ここに至ってわが手は彼の痛処《つうしょ》に触れたのである。なお黙ってはいたが、コックリと点頭《てんとう》して是認した彼の眼の中には露が潤《うる》んで、折から真赤に夕焼けした空の光りが華※[#二の字点、1−2−22]《はなばな》しく明るく落ちて、その薄汚い頬被《ほおかむ》りの手拭、その下から少し洩《も》れている額《ひたい》のぼうぼう生えの髪さき、垢《あか》じみた赭《あか》い顔、それらのすべてを無残に暴露した。
お母《っか》さんは何時《いつ》亡くなったのだい。
去年。
といった時には、その赭い頬に涙の玉が稲葉《いなば》をすべる露のようにポロリと滾転《こんてん》し下《くだ》っていた。
今のお母《っか》さんはお前をいじめるのだナ。
ナーニ、俺が馬鹿なんだ。
見た訳ではないが情態は推察出来る。それだのに、ナーニ、俺が馬鹿なんだ、というこの一語でもって自分の問《とい》に答えたこの児の気の動き方というものは、何という美しさであろう、我《われ》恥かしい事だと、愕然として自分は大《おおい》に驚いて、大鉄鎚《だいてっつい》で打たれたような気がした。釣の座を譲れといって、自分がその訳を話した時に、その訳がすらりと呑込めて、素直に座を譲ってくれたのも、こういう児であったればこそと先刻《さっき》の事を反顧《はんこ》せざるを得なくもなり、また今|残《のこ》り餌《え》を川に投げる方が宜いといったこの児の語も思合《おもいあわ》されて、田野の間《かん》にもこういう性質の美を持って生れる者もあるものかと思うと、無限の感が涌起《ようき》せずにはおられなかった。
自分はもう深入りしてこの児の家の事情を問うことを差控えるのを至当の礼儀のように思った。
では兄さん、この残り餌を土で団《まる》めておくれでないか、なるべく固く団めるの
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