篤行《あつゆき》から平姓を賜わり、和漢の才もあった人ではあるが、従五位上|駿河守《するがのかみ》になっただけで終った余り世栄を享けなかった人であるから、年齢其他の関係から、女には疎まれたのかも知れない。兼盛の集を見ると、「いひそめていと久しうなりにける人に」「返事もさらにせねば」「物などいへどいとつれなき人に」「女のもとにまかりて、ものなどいふにつれなきを思ひなげくほどに鳥さへなけば」「女よにこひしとも思はじといひたりければ」「女返しもせざりければ」「なをいとつらかりける女に」「いといたう恨みて」「思ひかけて久しくなりぬる人のことさまになりぬときゝて」などという前書の恋の歌が多い。後撰集雑二に「難波《なには》がた汀のあしのおいのよにうらみてぞふる人のこゝろを」というのが読人不知《よみびとしらず》になって出て居るが、兼盛の歌である。新勅撰集恋二に「しら山の雪のした草われなれやしたにもえつゝ年の経《へ》ぬらん」とあるのも兼盛の歌である。後拾遺集恋一、「恋そめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつゝ」、続千載集恋五、「つらくのみ見ゆる君かな山の端《は》に風まつ雲のさだめなき世に」も兼盛の歌である。猶《なお》まだ幾首も挙げることが出来るが、いずれも此方負け、力負けの哀しい歌のみで、しかも何となく兼盛がかわゆそうに年が相手よりも老いているような気味合が見える。此女が兼盛に一時は靡《なび》いたが、年もそぐわず、気も合わないで終《つい》に赤染氏に之《ゆ》いて了ったのではないか、それが右衛門の母では無かったかと想われてならない。然し勿論取留もないことで、女が何様《どう》いう人であったかさえも考え得無い。兼盛だとて王家を出で下って遠からぬ人ではあり、女児を得たい一心から相当に突張ったので、その噂が今にまで遺り伝っているのだろうが、生憎《あいにく》と赤染時用が其時は検非違使であったから敵《かな》わなかった。女児は女と共に赤染氏に取られて終《しま》った。それで其娘は生長して、赤染右衛門となったのである。だから当時の人が、それらの経緯《いきさつ》を知らぬ筈はないから、右衛門が右衛門となるまでには、随分苦労をしたことだろうと十二分に同情されるのである。
 然し右衛門は不幸の霜雪に圧虐されたままに消朽ちてしまう草や菅《すげ》では無かった。当時の大権威者だった藤原道長の妻の倫子《とも》に仕えて、そして大《おおい》に才名を馳《は》せたのであった。倫子は左大臣源雅信の女《むすめ》で、もとより道長の正室であり、准三宮《じゅさんぐう》で、鷹司殿と世に称されたのである。此の倫子の羽翼《はがい》の蔭に人となったことは、如何ばかり右衛門をして幸福ならしめたか知れないが、右衛門の天資が勝《すぐ》れていなければ、中々豪華|驕奢《きょうしゃ》の花の如く錦《にしき》の如く、人多く事多き生活の中に織込まれた一員となって、末々まで道長の輝かしい光に浴するを得るには至らなかったろう。詩人や歌人というものは、もとより人情にも通じ、自然にも親しむものであるが、それでも兎角奇特性があって、随分良い人でも常識には些《ちと》欠けていたり、妙にそげていたり、甚しいのになると何処か抜けていたりするものがあるが、右衛門は少しも然様《そう》いうところの無い、至極円満性、普通性の人で、放肆《ほうし》な気味合の強い和泉式部や、神経質過ぎる右大将道綱の母などとは選を異にしていた。これはずっと後の事であるが、吾《わ》が子の挙周の病気の重かった時、住吉の神に、みてぐら奉って、「千代《ちよ》経《へ》よとまだみどり児にありしよりたゞ住吉の松を祈りき」「頼みては久しくなりぬ住吉のまつ此度はしるしみせてよ」「かはらむと祈る命《いのち》はをしからで別ると思はむほどぞ悲しき」と三首の歌を記したなどは、種々の書にも見えて、いかにも好い母である。其挙周を出世させようとして、正月の司召《つかさめし》始まる夜、雪のひどく降ったのに鷹司殿にまいりて、任官の事を願いあげ、「おもへ君、かしらの雪をかきはらひ、消えぬさきにといそぐ心を」と詠んだので、道長も其歌を聞いて、哀れを催し、そこで挙周を其望み通り和泉守にしてやった。「払ひけるしるしも有りて見ゆるかな雪間《ゆきま》をわけて出づる泉《いづみ》の」と、道長か倫子か知らぬがお歌を賜わった。それに返して、「人よりもわきて嬉しきいづみかな雪げの水のまさるなるべし」など詠んでいるところは、実に好くいえば如才ない、悪く云えば世智に長《た》けた女である。いやそれよりもまだ驚くことは、夫の匡衡が或時家に帰って来ると、何か浮かぬ顔をして、物かんがえをしているようだ。そこで怪しく思って、何様《どう》遊ばしましたと問う。余り問われるので、匡衡先生も少し器量は善くないが泥を吐いた。実は四条中納言|公任卿《きんとうきょう》、中納言を辞そうとなさるのである。そこで同卿が紀[#(ノ)]斉名に辞表を草するように御依頼なされた。斉名は筆を揮《ふる》って書いた。ところで卿の御気に召さなかった。そして卿は更《あらた》めて大江[#(ノ)]以言に委嘱された。以言も骨を折って起草した。然るに以言の草稿をも飽足らず思召《おぼしめ》して、其果に此の匡衡に文案して欲しいとの御頼みなのだ。斉名の文は典雅荘重であり、以言の文は奇を出し才を騁《は》せ、其風体各々異なれど、いずれも文章の海山の竜であり象である。然るに両人の文いずれも御心にあかずして、更に匡衡に篤く御頼みありたりとて、同題にして異色の文、既に二章まで成りたる上は、匡衡が作、いずれのところにか筆を立てむ。御辞退申兼ねて帰りては来たれども、これを思うに、われも亦御心に飽かずとせらるる文字をつらぬるに過ぎざらんと、口惜しくもまた心苦しくおもうのである、と話した。公任卿は元来学問詩歌の才に長けたまえるのに、かかる場合に立たせられた夫が、困りもし悶《もだ》えもするのは文章で立っている身の道理千万の事と、右衛門は何の答をすることも出来ず、しばし思案に沈んだが、斯様《かう》いうところに口を出して夫を扶《たす》けられる者は中々あるものでは無い。勿論右衛門は歌を善くしたばかりではない、法華経《ほけきょう》廿八品《にじゅうはちほん》を歌に詠じたり、維摩経《ゆいまきょう》十喩《じゅうゆ》を詠んだりしているところを見ると、学問もあった人には相違ないが、夫のおもて業《わざ》にしている文章の事などに、女の差出口などが何で出来るべきものであろう。然し流石《さすが》に才女で、世の中の鹹《から》いも酸いも味わい知っていた人であった。御道理でござりまする、まことに斉名以言の君の御文章の宜しからぬということは無いことと存じまする、ただし公任卿はゆゆしく心高き御方におわす、御先祖よりの貴かりし由を述べ立て、少しく沈滞の意をあらわして記したまわむには、恐らくは意にかないて善しとせられなむ、如何におぼす、と助言した。匡衡ここに於て成程と合点して、然様いう意味を含めて、辞表とは云え、やや威張ったような調子を交えて起草した。果してそれは公任卿の意にかなって、中納言左衛門|督《かみ》を罷《や》めんことを請うの状は公《おおやけ》に奉呈され、匡衡は少くとも公任卿には斉名以言よりも文威の高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣|幸《さいはひ》に累代上台の家より出でゝ、謬《あやま》って過分|顕赫《けんかく》の任に至る。才は拙《つたな》くして零落《れいらく》せり、槐葉《くわいえふ》前蹤《ぜんしよう》を期《き》し難く、病重うして栖遅《せいち》す、柳枝《りうし》左の臂《ひぢ》に生《お》ふ可《べ》し」とあるところなどは、実に謙遜《けんそん》の中《うち》に衿持《きょうじ》をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し厭味《いやみ》を云って置いて、柳枝|左臂《さび》に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之《しかのみならず》と云って、皇太后の御上を云い、「猶子《いうし》の恩を蒙りて、兼ねて長秋《ちやうしう》の監たり、嘗薬《しやうやく》の事、相譲るに人無し」といい、「暫く彼《か》の仙院の塵を継《つ》いで、偏《ひと》へに此の后※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]《こうゐ》の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は悦《よろこ》んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が尚《とうと》ばれていたから、これも後の談《はなし》であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷《いなり》の禰宜《ねぎ》の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の捏造《ねつぞう》でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に聡明《そうめい》怜悧《れいり》な女でも、矢張り女だから、忌々《いまいま》しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が上手《うわて》だったから敵《かな》わない、一応は降参して、向後《きょうこう》然様《さよう》なところへはまいりませぬと謝罪して済んだが、そこには又あやしきは男女の縁で、焼木杭《やけぼっくい》は火の着くこと疾《はや》く、復《また》匡衡はそこへ通い出した。すると右衛門は、すっかり女の身許《みもと》から、匡衡がそこへ泊った時までを確実に調べ上げて置いて、丁度匡衡の其処に居た折、「我が宿のまつにしるしも無かりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を使に持たせて、受取証明を取ってこいと責めたてた。待つに松をかけて、吾家《わがや》へ帰るべきを忘れたのを怨《うら》んだも好いが、相手の女が稲荷様の禰宜《ねぎ》の女というので、杉村ならば帰ったろうにと云ったのは、冷視と蔑視《べっし》とを兼ねて、狐にばかされているのが其様《そんな》に嬉しいかと云わぬばかりに、ぴしゃりと一本見事に見舞っている。人に歌を読みかけられて返歌をせぬのは七生《しちしょう》暗《やみ》に生れるなどという諺《ことわざ》のある日本の人、まして匡衡だって中古三十六歌仙の中に入っている男だから、是非無くも「人をまつ山路《やまぢ》わかれず見えしかば思ひまどふにふみすぎにけり」と返事して使をかえした。然程《さほど》に待っていてくれるとも分らず思いまどうて余の路に踏みまどうた、相済みませぬ、恐れ入りました、という謝まりの証文の一札の歌であって、※[#「匈/月」、936−中−8]中《きょうちゅう》も苦しかったろうが歌も苦しい。ふみすぎにけり、で杉を使ったなどは随分せつない、歌仙の歌でも何でも有りはしない、音律不たしかな切《せつ》な屁《へ》のような歌である。しかし是に懲らされて、狐は落されてしまったと見え、それからは、鳶肩《えんけん》長身、傲骨《ごうこつ》稜々《りょうりょう》たる匡衡朝臣も、おとなしくなって、好いお父さんになっていたという話である。此歌も余り拙《まず》いから、多分後の物語作者などが作ったのだろうと思われては迷惑であるから断って置くが、慥《たしか》に右衛門集に出ているのである。
 赤染右衛門は斯様《こう》いう女である。こういう女が身体の血の気も漲《みなぎ》っていれば、心の火の熱も熾《さか》んな若盛りで、しかも婚後の温い生活を楽んでいる際に当って、近親の定基の家には、卑しい身分の一艶婦のために冷雨悲風が起って、其若い妻が泣きの涙でいるということを知っては
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