うようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人《あるじ》の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも其《そ》を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の革《なめしがわ》の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも方《けた》なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に逼《せま》って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失《おと》したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共《なんとも》困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙《きぜわ》しさに、思慮分別の暇《いとま》も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾《と》く疾く主人《あるじ》が方《かた》にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏|菩薩《ぼさつ》に会った心地して、掌《て》をすり合せて礼拝し、悦《よろこ》び勇んで、いそいそと忽《たちま》ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一[#(ト)]安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
 いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困《こう》じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事《くじ》まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合ったろう。でも公事に急《せ》かれては其《その》儘《まま》には済まされぬので、保胤の面目《めんぼく》無《な》さ、人々の厄介千万さも、御用の進行の大切《だいじ》に押流されて了って人々に世話を焼かれて、御くらの小舎人《こどねり》とかに帯を借りて、辛くも内に入り、公事は勤め果《おお》したということである。
 此の物語は疑わしいかどもあるが、まるで無根のことでも無かろうか。何にせよ随分突飛な談《はなし》ではある。しかし大に歪められた談にせよ、此談によって保胤という人の、俗智の乏しく世法に疎かったことは遺憾無く現わされている。これでは如何に才学が有って、善良な人であっても、世間を危気無しには渡って行かれなかったろうと思われるから、まして官界の立身出世などは、東西|相《あい》距《さ》る三十里だったであろう。
 斯様《かよう》な人だったとすれば、余程俗才のある細君でも持っていない限りは家の経済などは埒《らち》も無いことだったに相違無い。そこで志山林に在り、居宅を営まず、などと云われれば、大層好いようだが、実は為《しょ》うこと無しの借家住いで、長い間の朝夕《ちょうせき》を上東門の人の家に暮していた。それでも段々年をとっては、せめて起臥《きが》をわが家でしたいのが人の通情であるから、保胤も六条の荒地の廉《やす》いのを購《あがな》って、吾《わ》が住居《すまい》をこしらえた。勿論立派な邸宅というのでは無かったに疑い無いが、流石《さすが》に自分が造り得たのだから、其居宅の記を作って居る、それが今存している池亭記である。記には先ず京都東西の盛衰を叙して、四条以北、乾艮《けんこん》二方の繁栄は到底自分等の居を営むを許さざるを述べ、六条以北、窮僻《きゅうへき》の地に、十有余|畝《ほ》を得たのを幸とし、隆きに就きては小山を為《つく》り、窪きに就きては小池《しょうち》を穿《うが》ち、池の西には小堂を置きて弥陀《みだ》を安んじ、池の東には小閣を開いて書籍《しょじゃく》を納め、池北には低屋を起して妻子を著《つ》けり、と記している。阿弥陀堂を置いたところは、如何にも保胤らしい好みで、いずれささやかな堂ではあろうが、そこへ朝夕の身を運んで、焼香|供華《くげ》、礼拝《らいはい》誦経《じゅきょう》、心しずかに称名《しょうみょう》したろう真面目さ、おとなしさは、何という人柄の善いことだろう。凡《およ》そ屋舎十の四、池水九の三、菜園八の二、芹田《きんでん》七の一、とあるので全般の様子は想いやられるが、芹田七の一がおもしろい。池の中の小島の松、汀《みぎわ》の柳、小さな柴橋、北戸の竹、植木屋に褒められるほどのものは何一ツ無く、又先生の眉を皺《しわ》めさせるような牛に搬《はこ》ばせた大石なども更に見えなくても、蕭散《しょうさん》な庭のさまは流石に佳趣無きにあらずと思われる。予行年|漸《ようや》く五旬になりなんとして適々《たまたま》少宅有り、蝸《か》其舎に安んじ、虱《しらみ》其の縫を楽む、と言っているのも、けちなようだが、其実を失わないで宜い。家主、職は柱下に在りと雖《いえど》も、心は山中に住むが如し。官爵は運命に任す、天の工|均《あまね》し矣。寿夭《じゅよう》は乾坤《けんこん》に付す、丘《きゅう》の祷《いの》ることや久し焉。と内力少し気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を揚げて居るのも、ウソでは無いから憎まれぬ。朝に在りて身暫く王事に随《したが》い、家にありては心永く仏那《ぶつな》に帰す、とあるのは、儒家としては感服出来ぬが、此人としては率直の言である。夫《か》の漢の文皇帝を異代の主と為す、と云っているのは、腑に落ちぬ言だが、其後に直《ただち》に、倹約を好みて人民を安んずるを以てなり、とある。一体異代の主というのは変なことであるが、心裏に慕い奉《まつ》る人というほどのことであろう。倹約を好んで人民を安んずる君主は、真に学ぶべき君主であると思っていたからであろうか、何も当時の君主を奢侈《しゃし》で人民を苦める御方《おんかた》と見做《みな》す如き不臣の心を持って居たでは万々《ばんばん》あるまい、ただし倹約を好み人民を安んずるの六字を点出して、此故を以て漢文を崇慕するとしたに就ては、聊《いささ》か意なきにあらずである。それは此記の冒頭に、二十余年以来、東西二京を歴見するに、云々《うんぬん》と書き出して、繁栄の地は、高家比門連堂、其価値二三畝千万銭なるに至れることを述べて居るが、保胤の師の菅原文時が天暦十一年十二月に封事三条を上《たてまつ》ったのは、丁度二十余年前に当って居り、当時文化日に進みて、奢侈の風、月に長じたことは分明《ぶんみょう》であり、文時が奢侈を禁ぜんことを請うの条には、方今高堂連閣、貴賎共に其居を壮《さかん》にし、麗服美衣、貧富同じく其製を寛《ゆたか》にすると云い、富める者は産業を傾け、貧者は家資を失う、と既に其弊の見《あら》わるるを云って居る。物価は騰貴をつづけて、国用漸く足らず、官を売って財に換うるのことまで生ずるに至ったことは、同封事第二条に見え、若《も》し国用を憂うならば則《すなわ》ち毎事必ず倹約を行え、と文時をして切言せしめている。爾後《じご》二十余年、世態|愈々《いよいよ》変じて、華奢増長していたろうから、保胤のようなおとなしい者の眼からは、倹約安民の上を慕わしく思ったのであろう。次に、唐の白楽天を異代の師と為す、詩句に長じて仏法に帰するを以てなり、と記している。白氏を詩宗《しそう》としたのは保胤ばかりでなく、当時の人皆然りであった。ただ保胤の白氏を尊ぶ所以《ゆえん》は、詩句に長じたからのみではなく、白氏の仏法に帰せるに取るあるのである。ところが白氏は台所婆なぞを定規にして詩を裁《た》った人なので、気の毒に其の益をも得たろうが其弊をも受け、又白氏は唐人の習い、弥勒菩薩《みろくぼさつ》の徒であったろうに、保胤は弥陀如来《みだにょらい》の徒であったのはおかしい。次に、晋朝の七賢を異代の友と為す、身は朝に在って志は隠に在るを以てなり、と記している。竹林の七賢は、いずれ洒落《しゃれ》た者どもには相違無いが、懐中に算籌《さんちゅう》を入れていたような食えない男も居て、案外保胤の方が善いお父さんだったか知れない。是《かく》の如く叙し来ったとて、文海の蜃楼《しんろう》、もとより虚実を問うべきではないが、保胤は日々|斯様《こう》いう人々と遇っているというのである。そして、近代人世の事、一《いつ》も恋《した》うべき無し、人の師たるものは貴を先にし富を先にして、文を以て次《じ》せず、師無きに如《し》かず、人の友たる者は勢を以てし利を以てし、淡を以て交らず、友無きに如かず、予門をふさぎ戸を閉じ、独り吟じ独り詠ず、と自ら足りて居る。応和以来世人好んで豊屋峻宇《ほうおくしゅんう》を起し、殆ど山節|藻※[#「木+兌」、第3水準1−85−72]《そうせつ》に至る、其費且つ巨千万、其住|纔《わずか》に二三年、古人の造る者居らずと云える、誠なるかな斯言《このげん》、と嘲《あざけ》り、自分の暮歯に及んで小宅を起せるを、老蚕の繭《まゆ》を成すが如しと笑い、其の住むこと幾時ぞや、と自ら笑って居る。老蚕の繭を成せる如し、とは流石に好かった。此記を為せるは、天元五年の冬、保胤四十八九歳ともおもわれる。
 保胤が日本往生極楽記を著わしたのは、此の六条の池亭に在った時であろうと思われる。今存している同書は朝散大夫著作郎慶保胤撰《ちょうさんたいふちょさくろうきょうほういんせん》と署名してある、それに拠れば保胤が未だ官を辞せぬ時の撰にかかると考えられるからである。其書に叙して、保胤みずから、予|少《わか》きより日に弥陀仏を念じ、行年四十以後、其志|弥々《いよいよ》劇《はげ》しく、口に名号を唱え、心に相好《そうごう》を観じ、行住|坐臥《ざが》、暫くも忘れず、造次|顛沛《てんぱい》も必ず是に於てす、夫《か》の堂舎|塔廟《とうびょう》、弥陀の像有り浄土の図ある者は、礼敬《らいきょう》せざるなく、道俗男女、極楽に志す有り、往生を願う有る者は、結縁《けちえん》せざる莫《な》し、と云って居るから、四十以後、道心日に募りて已《や》み難く、しかも未だ官を辞さぬ頃、自他の信念勧進のために、往生事実の良験《りょうげん》を録して、本朝四十余人の伝をものしたのである。清閑の池亭の中《うち》、仏前|唱名《しょうみょう》の間々《あいあい》に、筆を執って仏|菩薩《ぼさつ》の引接《いんじょう》を承《う》けた善男善女の往迹《おうじゃく》を物しずかに記した保胤の旦暮《あけくれ》は、如何に塵界《じんかい》を超脱した清浄三昧《しょうじょうさんまい》のものであったろうか。此往生極楽記は其序に見える通り、唐の弘法寺《ぐほうじ》の僧の釈迦才《しゃくかさい》の浄土論中に、安楽往生者二十人を記したのに傚《なら》ったものであるが、保胤往生の後、大江匡房《おおえのまさふさ》は又保胤の往生伝の先蹤《せんしょう》を追うて、続本朝往生伝を撰《せん》している。そして其続伝の中には保胤も採録されているから、法縁|微妙《みみょう》、玉環の相連なるが如しである。匡房の続往生伝の叙に、寛和年中、著作郎慶保胤、往生伝を作りて世に伝う、とあるに拠れば、保胤が往生伝を撰したのは、正しく保胤が脱白|被緇《ひし》の前年、五十一二歳頃、彼の六条の池亭に在った時ででもあったろう。
 保胤が池亭を造った時は、自ら記して、老蚕の繭《まゆ》を成せるがごとしと云ったが、老蚕は永く繭中《けんちゅう》に在り得無かった。天元五年の冬、其家は成り、其記は作られたが、其翌年の永観元年には倭名類聚抄《わみょうるいじ
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