連環記
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)慶滋保胤《かものやすたね》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)賀茂|氏《うじ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「匈/月」、922−上−15]《むね》が

 [#…]:返り点
 (例)宮鶯囀[#二]暁光[#一]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)其事一[#(ト)]わたり

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なく/\
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 慶滋保胤《かものやすたね》は賀茂忠行《かものただゆき》の第二子として生れた。兄の保憲《やすのり》は累代の家の業を嗣《つ》いで、陰陽博士《おんようはかせ》、天文《てんもん》博士となり、賀茂|氏《うじ》の宗《そう》として、其系図に輝いている。保胤はこれに譲ったというのでもあるまいが、自分は当時の儒家であり詞雄《しゆう》であった菅原文時の弟子となって文章生《もんじょうせい》となり、姓の文字を改めて、慶滋とした。慶滋という姓があったのでも無く、古い書に伝えてあるように他家の養子となって慶滋となったのでも無く、兄に遜《ゆず》るような意から、賀茂の賀の字に換えるに慶の字を以てし、茂の字に換えるに滋の字を以てしたのみで、異字同義、慶滋はもとより賀茂なのである。よししげの保胤などと読む者の生じたのも自然の勢ではあるが、後に保胤の弟の文章《もんじょう》博士保章の子の為政が善滋《かも》と姓の字を改めたのも同じことであって、為政は文章博士で、続本朝文粋《しょくほんちょうもんずい》の作者の一人である。保胤の兄保憲は十歳|許《ばかり》の童児の時、法眼《ほうげん》既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり、又保胤の父の忠行は後の人の嘖々《さくさく》として称する陰陽道の大《だい》の験者《げんざ》の安倍晴明《あべのせいめい》の師であったのである。此の父兄や弟や姪《おい》を有した保胤ももとより尋常一様のものでは無かったろう。
 保胤の師の菅原文時は、これも亦一通りの人では無かった。当時の文人の源|英明《ひであき》にせよ、源為憲にせよ、今|猶《なお》其文は本朝文粋にのこり、其才は後人に艶称さるる人々も、皆文時に請《こ》いて其文章詞賦の斧正《ふせい》を受けたということである。ある時御内宴が催されて、詞臣等をして、|宮鶯囀[#二]暁光[#一]《きゅうおうぎょうこうにさえずる》いう題を以て詩を賦せしめられた。天皇も文雅の道にいたく御心を寄せられたこととて、
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
露は濃《こま》やかにして 緩く語る 園花の底、
月は落ちて 高く歌ふ 御柳《ぎよりう》の陰。
[#ここで字下げ終わり]
という句を得たまいて、ひそかに御懐《ぎょかい》に協《かな》いたるよう思《おぼ》したまいたる時、文時もまた句を得て、
[#ここから2字下げ]
西の楼 月 落ちたり 花の間《あいだ》の曲、
中殿 灯《ともしび》 残《き》えんとす 竹の裏《うち》の声。
[#ここで字下げ終わり]
と、つらねた。天皇聞しめして、我こそ此題は作りぬきたりと思いしに、文時が作れるも又すぐれたりと思召《おぼしめ》して、文時を近々と召して、いずれか宜しきや、と仰せられた。文時は、御製《ぎょせい》いみじく、下七字は文時が詩にも優れて候、と申した。これは憚《はばか》りて申すならんと、ふたたび押返し御尋ねになった。文時是非なく、実《まこと》には御製と臣が詩と同じほどにも候か、と申した。猶も憚りて申すことと思召して、まこと然らば誓言《せいごん》を立つべしと、深く詩を好ませたもう余りに逼《せま》って御尋ねあると、文時ここに至って誓言は申上げず、まことには文時が詩は一段と上に居り候、と申して逃げ出してしまったので、御笑いになって、うなずかせたもうたということであった。こういう文時の詩文は菅三品《かんさんぽん》の作として今に称揚せられて伝わっているが、保胤は実に当時の巨匠たる此人の弟子の上席であった。疫病の流行した年、或人の夢に、疫病神が文時の家には押入らず、其の前を礼拝《らいはい》して過ぐるのを見た、と云われたほど時人《じじん》に尊崇《そんそう》された菅三品の門に遊んで、才識日に長じて、声名世に布《し》いた保胤は、試《し》に応じて及第し、官も進んで大内記《だいないき》にまでなった。
 具平《ともひら》親王は文を好ませたまいて、時の文人学士どもを雅友として引見せらるることも多く、紀《き》ノ斉名《まさな》、大江ノ以言《もちとき》などは、いずれも常に伺候したが、中にも保胤は師として遇したもうたのであった。しかし保胤は夙《はや》くより人間の紛紜《ふんうん》にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に※[#「匈/月」、922−上−15]《むね》が染《そ》みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓《おし》えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一[#(ト)]わたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑《ねむ》ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想《おもい》を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦《ねんじゅ》したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道《しょうどう》に運んでいるのみであるから、咎《とが》めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言|綺語《きぎょ》即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是《ぜ》としたところであったには疑無い。
 この保胤に対しては親王も他の藻絵《そうかい》をのみ事とする詞客《しかく》に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺《ひわだぶき》の家の御簾《みす》ところどころはずれたる中《うち》に女の箏《そう》の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松《すいしょう》の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡《まさひら》は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑《かいちゅう》を被《こうむ》り、駿馬《しゅんめ》に鞭《むち》打《う》って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其|鉾《ほこさき》森然《しんぜん》として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下《そなた》のは、と問わせたまうに、旧上達部《ふるかんだちべ》の檳榔毛《びろうげ》の車に駕《の》りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図《しくうと》が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感《ぎょかん》あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にでも検討さるることであるが、評の当否よりも、評の仕方の如何にも韵致《いんち》があって、仙禽《せんきん》おのずから幽鳴を為せる趣があるのは、保胤其人を見るようで面白いと云いたい。
 慾を捨て道に志すに至る人というものは、多くは人生の磋躓《さち》にあったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭《こうべ》を回《めぐ》らして今まで歩を進めた路とは反対の路へ歩むものであるが、保胤には然様《そう》した機縁があって、それから転向したとは見えない。自然に和易の性、慈仁の心が普通人より長《た》けた人で、そして儒教の仁、仏道の慈ということを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、然様ありたいと念じ、学問修証の漸《ようや》く進むに連れて、愈々《いよいよ》日に月に其傾向を募らせ、又其傾向の愈々募らんことを祈求《きぐ》して已《や》まぬのをば、是《これ》真実道、是無上道、是|清浄道《しょうじょうどう》、是安楽道と信じていたに疑無い。それで保胤は性来慈悲心の強い上に、自ら強いてさえも慈悲心に住していたいと策励していたことであろうか、こういうことが語り伝えられている。如何なる折であったか、保胤は或時往来繁き都の大路の辻に立った。大路の事であるから、貴《たか》き人も行き、賤《ひく》き者も行き、職人も行き、物売りも行き、老人も行けば婦人も行き、小児も行けば壮夫も行く、亢々然《こうこうぜん》と行くものもあれば、踉蹌《ろうそう》として行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高《かさだか》の荷を負うて喘《あえ》ぎ喘ぎ大車の軛《くびき》につながれて涎《よだれ》を垂れ脚を踏張《ふんば》って行く牛もあった。これもまた牛馬が用いられた世の事で何の不思議もないことであった。牛は力の限りを尽して歩いている。しかも牛使いは力《つと》むること猶《なお》足らずとして、これを笞《むち》うっている。笞の音は起って消え、消えて復《また》起る。これも世の常、何の不思議も無いことである。しかし保胤は仏教の所謂《いわゆる》六道の辻にも似た此辻の景色を見て居る間に、揚々たる人、※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]々《くく》たる人、営々|汲々《きゅうきゅう》、戚々《せきせき》たる人、鳴呼《ああ》鳴呼、世法は亦復|是《かく》の如きのみと思ったでもあったろう後に、老牛が死力を尽して猶|笞《しもと》を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途《みち》は遠くして、日は熾《さか》りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水《しずく》も得ぬ其苦しさや抑《そも》如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎《うと》む目づかいのみに得知らぬ意《こころ》を動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙《つたな》くも牛とは生れしぞ、汝今|抑々《そもそも》何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢《はっし》と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無《なむ》、救わせたまえ、諸仏|菩薩《ぼさつ》、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古《たいこ》からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に墜《お》ちたものとして弾呵《だんか》してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が亢《たか》ぶって、それによって非違に趨《はし》るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。
 ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和《か》なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒《ふらち》不都合になって、やや無茶苦茶になって終《しま》う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯《とうすみ》の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府《えもんふ》というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐《ひれん》の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そ
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