《しもと》を受くるのを見ては、ああ、疲れたる牛、厳しき笞、荷は重く途《みち》は遠くして、日は熾《さか》りに土は焦がる、飲まんとすれど滴水《しずく》も得ぬ其苦しさや抑《そも》如何ばかりぞや、牛目づかいと云いて人の疎《うと》む目づかいのみに得知らぬ意《こころ》を動かして何をか訴うるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙《つたな》くも牛とは生れしぞ、汝今|抑々《そもそも》何の罪ありて其苦を受くるや、と観ずる途端に発矢《はっし》と復笞の音すれば、保胤はハラハラと涙を流して、南無《なむ》、救わせたまえ、諸仏|菩薩《ぼさつ》、南無仏、南無仏、と念じたというのである。こういうことが一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他の当面の苦を救ってやったことも度々あったので、其噂は遂に今日にまで遺り伝わったのであろう。服牛乗馬は太古《たいこ》からの事で、世法から云えば保胤の所為の如きはおろかなことであるが、是の如くに感ずるのが、いつわりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如くに念ずるのを以て正である善であると信じている人に対しては、世法からの智愚の判断の如きは本より何ともすることの出来ぬ、力無いものである。又仏法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張するのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは魔境に墜《お》ちたものとして弾呵《だんか》してある経文もあるが、保胤のは慈念や悲念が亢《たか》ぶって、それによって非違に趨《はし》るに至ったのでも何でもないから、本より非難すべくも無いのである。
ただし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和《か》なりとある。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埒《ふらち》不都合になって、やや無茶苦茶になって終《しま》う。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、灯芯《とうすみ》の縄張同様だと云って終われればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおもて、催されて御所へ参入しかけた。衛門府《えもんふ》というのが御門警衛の府であって、左右ある。其の左衛門の陣あたりに、女が実に苦しげに泣いて立っていた。牛にさえ馬にさえ悲憐《ひれん》の涙を惜まぬ保胤である、若い女の苦しみ泣いているのを見て、よそめに過そうようは無い。つと立寄って、何事があって其様には泣き苦むぞ、と問慰めてやった。女は答えわずらったが親切に問うてくれるので、まことは主人《あるじ》の使にて石の帯を人に借りて帰り候が、路にておろかにも其《そ》を取りおとして失い、さがし求むれど似たるものもなく、いかにともすべきようなくて、土に穴あらば入りても消えんと思い候、主人の用を欠き、人さまの物を失い、生きても死にても身の立つべき瀬の有りとしも思えず、と泣きさくりつつ、たどたどしく言った。石の帯というは、黒漆の革《なめしがわ》の帯の背部の飾りを、石で造ったものをいうので、衣冠束帯の当時の朝服の帯であり、位階によりて定制があり、紀伊石帯、出雲石帯等があれば、石の形にも方《けた》なのもあれば丸なのもある。石帯を借らせたとあれば、女の主人は無論参朝に逼《せま》って居て、朋友の融通を仰いだのであろうし、それを遺失《おと》したというのでは、おろかさは云うまでも無いし、其の困惑さも亦言うまでも無いが、主人もこれには何共《なんとも》困るだろう、何とかして遣りたいが、差当って今何とすることもならぬ、是非が無い、自分が今帯びている石帯を貸してやるより道は無いと、自分が今催促されて参入する気忙《きぜわ》しさに、思慮分別の暇《いとま》も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾《と》く疾く主人《あるじ》が方《かた》にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏|菩薩《ぼさつ》に会った心地して、掌《て》をすり合せて礼拝し、悦《よろこ》び勇んで、いそいそと忽《たちま》ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一[#(ト)]安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困《こう》じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事《くじ》まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合っ
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