を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の瞋眼《しんがん》、女の怨気《えんき》、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。特《こと》に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、悪《にく》みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を蔑視《べっし》もしたろう、行末|悪《あし》かれ、地獄に墜《お》ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と呪《のろ》いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み視《み》ては、愴然《そうぜん》栗然《りつぜん》として堪《こら》えきれぬ思いをしたことであったろう。
およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌《とき》の念が今少し寡《すくな》かったら如何に定基が力寿に迷溺《めいでき》したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた籤《くじ》の男に別れては堪《たま》るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて簑《みの》を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落《しゃれ》れているのである。それでいて其男が甚《ひど》い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば癇強《かんづよ》な馬で、人としては生一本《きいっぽん》の人であったろう。で、女房を逐出《おいだ》し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身《こんしん》の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を馳駆《ちく》して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓|浄几《じょうき》香炉詩巻、吟詠《ぎんえい》翰墨《かんぼく》の遊びをして性情を頤養《いよう》するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様《そん》な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦|凋傷《ちょうしょう》するは、人生のきまり相場で、造物|豈《あに》独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛《じゅそ》が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶《なお》幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の修法《しゅほう》、彼《か》の修法と、祈祷《きとう》の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に瓶中《へいちゅう》に萎《しお》れゆくが如く、清らな瓜の筺裏《きょうり》に護られながら漸《ようや》く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は焦躁《しょうそう》しだした。怒りを人に遷《うつ》すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、透徹《すきとお》るような瘻《やつ》れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは却《かえ》って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの清水《せいすい》を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を此様《かよう》に喜ぶかと思うと、定基は堪《たま》らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心
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