き落されて死地に置かれたのである。謂は是《かく》の如きの人なのである。
知礼の答釈は成った。寂照はこれを携えて、本国へと帰るべきことになったのである。然るに何様《どう》いうものだったか、其時は勢威日に盛んであった丁謂は、寂照を留《とど》めんと欲して、切《しきり》に姑蘇《こそ》の山水の美を説き、照の徒弟をして答釈を持《もて》帰《かえ》らしめ、照を呉門寺に置いて、優遇至らざるなくした。寂照は既に仏子である。一切の河川が海に入ればただ是れ海なるが如く、一切の氏族が釈門に入れば皆釈氏である。別に東西の分け隔てをして日本に帰らねばならぬという要も無いのであるから、寂照は遂に呉門寺に止《とど》まった。寂照は戒律精至、如何にも立派な高徳であることが人々に認められたから、三呉の道俗|漸《ようや》く多く帰向して、寂照の教化《きょうけ》は大に行われたと云われている。そして寂照は其儘《そのまま》に呉に在ったこと三十余年、仁宗の景祐元年、我が後一条天皇の長元七年、「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾《かんじ》として微笑《みしょう》して終った。
丁謂もこれに先だつこと一年か二年、明道年間に死んだのであるが、寂照が平坦《へいたん》な三十年ばかりの生活をした間に、謂は嶮峻《けんしゅん》な世路を歩んで、上ったり下ったりしたのであった。別に其間に謂と照との談《はなし》はない。謂は謂であり、照は照であったであろう。最初に謂がしきりに照を世話した頃、照は謂に其の有《も》っていた黒金の水瓶《すいびょう》に詩を添えて贈った。
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提携《ていけい》す三五載《さんごさい》、日に用ゐて曾《かつ》て離れず。
暁井《げうせい》 残月を斟《く》み、寒炉《かんろ》 砕※[#「さんずい+斯」、第3水準1−87−16]《さいし》を釈《お》く。
※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]銀《はぎん》 侈《し》をを免《まぬか》れ難く、莱石《らいせき》 虧《き》を成《な》し易し。
此器 堅く還《また》実なり、公《こう》に寄《よ》す 応《まさ》に知る可きなるべし。
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答詩が有ったろうが、丁謂集を有せぬから知らぬ。謂に対しての照の言葉の残っているのはただこれだけである。謂が流された崖州は当時は甚だしい蛮島であった。謂の作、
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今《いま》崖州に到る 事|嗟《なげ》く可し、夢中《むちゅう》常に京華《けいくわ》に在るが如し。
程途《ていと》何ぞ啻《たゞ》一万里のみならん、戸口|都《す》べて無し三百家。
夜は聴く猿《ましら》の孤樹《こじゆ》に啼《な》いて遠きを、暁《あかつき》には看《み》る潮《うしほ》の上《のぼ》って瘴煙《しやうえん》の斜《なゝめ》なるを。
吏人《りじん》は見ず中朝《ちゆうてう》の礼、麋鹿《びろく》 時々 県衙《けんが》に到る。
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かかるところへ、死ねがしに流されたのである。然し其処に在ること三年で、内地へ還《かえ》るを得た時、
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九万里 鵬《ほう》 重ねて海を出で、一千里 鶴《つる》 再び巣《す》に帰る。
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の句をなした。それのみか然様《そう》いう恐ろしいところではあるが、しかし沈香《じんこう》を産するの地に流された因縁で、天香伝一篇を著わして、恵《めぐみ》を後人に貽《おく》った。実に専ら香事を論賛したものは、天香伝が最初であって、そして今に伝わっているのである。かくて香に参した此人の終りは、宋人|魏泰《ぎたい》の東軒筆録に記されている。曰《いわ》く、丁晋公臨終前半月、已《すで》に食《くら》はず、但《ただ》香を焚《た》いて危坐《きざ》し、黙して仏経を誦《じゆ》す、沈香の煎湯《せんたう》を以て時々《じゞ》少許《せうきよ》を呷《あふ》る、神識乱れず、衣冠を正し、奄然《えんぜん》として化し去ると。
底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷
底本の親本:「露伴全集」岩波書店
1978(昭和53)年
※底本では、右寄せ小書きになっている「ノ」と、やや大きく中央に来ている「ノ」が混在していますが、底本の扱いをなぞり、前者のみを訓点送り仮名として処理しました。
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年5月28日作成
2006年5月19日修正
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