高いものと認められて面目を施した。其文が今遺っているから面白い。読んで見ると其中に、「臣|幸《さいはひ》に累代上台の家より出でゝ、謬《あやま》って過分|顕赫《けんかく》の任に至る。才は拙《つたな》くして零落《れいらく》せり、槐葉《くわいえふ》前蹤《ぜんしよう》を期《き》し難く、病重うして栖遅《せいち》す、柳枝《りうし》左の臂《ひぢ》に生《お》ふ可《べ》し」とあるところなどは、実に謙遜《けんそん》の中《うち》に衿持《きょうじ》をあらわして、如何にもおもしろい。槐葉前蹤を期し難し、と云って、少し厭味《いやみ》を云って置いて、柳枝|左臂《さび》に生ずべしと、荘子を引張り出してオホンと澄ましたところなどは、成程気位の高い公任卿を破顔させたろうと思われる。それから加之《しかのみならず》と云って、皇太后の御上を云い、「猶子《いうし》の恩を蒙りて、兼ねて長秋《ちやうしう》の監たり、嘗薬《しやうやく》の事、相譲るに人無し」といい、「暫く彼《か》の仙院の塵を継《つ》いで、偏《ひと》へに此の后※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]《こうゐ》の月に宿せん」と云ったあたり、此時代の文章として十分の出来である。公任卿は悦《よろこ》んだに相違無いが、匡衡の此手柄も右衛門の助言から出たのである。公任卿は中納言左衛門督は辞したが特に従二位に叙せられ、後には権大納言正二位にまでなられたこと人の知る通りである。右衛門の才は此話を考えると、中々隅へ置けるどころでは無い、男子であったらば随分栄達したであろう。これほどの女であるが、当時の風俗で、男女の間は自由主義が尚《とうと》ばれていたから、これも後の談《はなし》であるが、夫の匡衡には一時負かされた。匡衡は何様した因縁だったか、三輪の山のあたりの稲荷《いなり》の禰宜《ねぎ》の女に通うようになった。ここに三輪という地名を出したが、それは今昔物語なんどにも無く、自分の捏造《ねつぞう》でも無いが、地名も人名も何も無くては余り漠然としているから、赤染右衛門集に、三輪の山のあたりにや、と記してあるので用いたまでである。右衛門は如何に聡明《そうめい》怜悧《れいり》な女でも、矢張り女だから、忌々《いまいま》しくもあり、勘忍もしがたいから、定石どおり焼き立てたにちがい無い。匡衡よりも多分器量の上だったに疑い無い右衛門に責められては、相手が上手《うわて》だったから敵《か
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