った。しかし保胤は夙《はや》くより人間の紛紜《ふんうん》にのみ心は傾かないで、当時の風とは言え、出世間の清寂の思に※[#「匈/月」、922−上−15]《むね》が染《そ》みていたので、親王の御為に講ずべきことは講じ、訓《おし》えまいらすべきことは訓えまいらせても、其事一[#(ト)]わたり済むと、おのれはおのれで、眼を少し瞑《ねむ》ったようにし、口の中でかすかに何か念ずるようにしていたという。想《おもい》を仏土に致し、仏経の要文なんどを潜かに念誦《ねんじゅ》したことと見える。随分奇異な先生ぶりではあったろうが、何も当面を錯過するのでは無く、寸暇の遊心を聖道《しょうどう》に運んでいるのみであるから、咎《とが》めるべきにはならぬことだったろう。もともと狂言|綺語《きぎょ》即ち詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是《ぜ》としたところであったには疑無い。
 この保胤に対しては親王も他の藻絵《そうかい》をのみ事とする詞客《しかく》に対するとはおのずから別様の待遇をなされたであろうが、それでも詩文の道にかけては御尋ねの出るのは自然の事で、或時当世の文人の品評を御求めになった。そこで保胤は是非無く御答え申上げた。斉名が文は、月の冴えたる良き夜に、やや古りたる檜皮葺《ひわだぶき》の家の御簾《みす》ところどころはずれたる中《うち》に女の箏《そう》の琴弾きすましたるように聞ゆ、と申した。以言はと仰せらるれば、白沙の庭前、翠松《すいしょう》の陰の下に、陵王の舞楽を奏したるに似たり、と申す。大江ノ匡衡《まさひら》は、と御尋ねあれば、鋭士数騎、介冑《かいちゅう》を被《こうむ》り、駿馬《しゅんめ》に鞭《むち》打《う》って、粟津の浜を過ぐるにも似て、其|鉾《ほこさき》森然《しんぜん》として当るものも無く見ゆ、と申す。親王興に入りたまいて、さらば足下《そなた》のは、と問わせたまうに、旧上達部《ふるかんだちべ》の檳榔毛《びろうげ》の車に駕《の》りたるが、時に其声を聞くにも似たらん、と申した。長短高下をとかく申さで、おのずから其詩品を有りのままに申したる、まことに唐の司空図《しくうと》が詩品にも優りて、いみじくも美わしく御答え申したと、親王も御感《ぎょかん》あり、当時の人々も嘆賞したのであった。斉名、以言、匡衡、保胤等の文、皆今に存しているから、此評の当っているか、いぬかは、誰にで
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