僧である。
 かかる狂気《きちがい》じみたところのある僧であったから、三条の大きさいの宮の尼にならせ給わんとして、増賀を戒師とせんとて召させたまいたる時、途轍《とてつ》も無き※[#「鹿/(鹿+鹿)、第3水準1−94−76]言《そげん》を吐き、悪行をはたらき、殊勝の筵《えん》に列《つらな》れる月卿雲客、貴嬪采女《きひんさいじょ》、僧徒等をして、身|戦《おのの》き色失い、慙汗憤涙《ざんかんふんるい》、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。それを記している宇治拾遺《うじしゅうい》の巻十二の文は、ここに抄出するさえ忌《いま》わしいから省くが、虎関禅師は、出麁語《しゅっそご》の三字きりで済ませているから上品ではあるが事情は分らぬ。大江匡房は詞藻の豊な人であって、時代も近い人だったから、記せぬわけにもゆかぬと思って書いたのであろうが、流石《さすが》に筆鋒《ひっぽう》も窘蹙《きんしゅく》している。放臭風の三字を以て瀉下《しゃか》したことを写しているが、写し得ていない。|誰人以[#二]増賀[#一]為[#二]※[#「謬」の「言」に代えて「女」、928−中−18]※[#「士/毋」、928−中−18]之輩[#一]《たれびとかぞうがをもつてきうあいのはいとなり》、|啓[#二]達后※[#「門<韋」、第4水準2−91−59][#一]乎《こうゐにけいたつするものとなすか》、と麁語を訳しているが、これも髣髴《ほうふつ》たるに至らず、訳して真を失っている。仕方が無い。匡房の才の拙なるにあらず、増賀の狂の甚しきのみと言って置こう。釈迦《しゃか》の弟子の中で迦留陀夷《かるだい》というのが、教壇の上で穢語《えご》を放って今に遺り伝わっているが、迦留陀夷のはただ阿房《あほ》げているので、増賀のは其時既に衰老の年であったが、ふたたび宮※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]などに召出されぬよう斬釘截鉄的《ざんていせってつてき》に狂叫したのだとも云えば云えよう。実に断岸絶壁、近より難い、天台禅ではありながら、祖師禅のような気味のある人であった。
 此の断岸絶壁のような智識に、清浅の流れ静かにして水は玉の如き寂心が魔訶止観《まかしかん》を学び承《う》けようとしたのであった。止観は隋《ずい》の天台智者大師の所説にして門人|灌頂《かんじょう》の記したものである。たとい唐の※[#「田+比」、
前へ 次へ
全60ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング