助したのか知らぬが、有力な檀那《だんな》が附かなくては、寂照も長く他邦には居れまいから、其事は実際だったに違無い。
丁謂は蘇州長州の人、少《わか》い時|孫何《そんか》と同じく文を袖《そで》にして王禹※[#「稱」の「のぎへん」に代えて「人べん」、第3水準1−14−35]《おううしょう》に謁したら、王は其文を見て大に驚き、唐の韓愈《かんゆ》、柳宗元の後三百年にして始めて此作あり、と褒めたという。当時孫・丁と称されたということだが、孫、丁の名は少し後に出た欧陽修・王安石・三蘇の名に掩《おお》われて、今は知る者も少い。淳化三年進士及第して官に任じて、其政事の才により功を立てて累進して丞相《じょうしょう》に至り、真宗の信頼を得、乾興元年には晋国公に封《ほう》ぜらるるに至った。蘇州節度使だった時、真宗の賜わった詩に、
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践歴《せんれき》 功皆|著《いちじる》しく、諮詢《しじゆん》 務《つとめ》必ず成《な》す。
懿才《いさい》 曩彦《なうげん》に符《ふ》し、佳器《かき》 時英《じえい》を貫《つらぬ》く。
よく経綸《けいりん》の業を展《の》べ、旋《めぐり》陞《のぼ》る輔弼《ほひつ》の栄《えい》。
嘉享《かきやう》 盛遇《せいぐう》を忻《よろこ》び、尽瘁《じんすゐ》純誠《じゆんせい》を※[#「馨」の「香」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つく》す。
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の句がある。これでは寇準《こうじゅん》の如き立派な人を政敵にしても、永い間は勝誇った訳である。政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰して上《たてまつ》り、賦税《ふぜい》戸口《ここう》の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋《えきき》、営造、音律、何にも彼《か》にも通暁して、茶も此人から蔡嚢《さいじょう》へかけて進歩したのであり、蹴鞠《しゅうきく》にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其|后《きさき》の悪《にくし》みを受け、擅《ほしいまま》に永定陵を改めたるによって罪を被《こうむ》り、且つ宦官《かんがん》雷允恭《らいいんきょう》と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫《えんたく》せられ、数年にして道州に徙《うつ》され、致仕して光州に居りて卒《しゅつ》した。つまり政敵にたた
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