22]と涙を拭ふばかりである。
 かうして、背戸に泣く虫の音もいたく衰へた秋の夜長、親子三人枕を並べはしたが、思ひ/\の悲愁に満ちた不眠の幾夜、分けても釜貞にとつては辛い苦しい悪夢の夜が続くのであつた。

    三

 貧すれば鈍するとか、分別も智慧もありながら、頑固な気性がつひした借金の負目《おひめ》となつて、釜貞は、一月二月と経つうちに、破れ障子破れ衾《ぶすま》の夜寒に思案もなく、有る程のものを悉く売り尽して露の命を細※[#二の字点、1−2−22]と繋いでゐたが、山と重なる諸方の支払も云訳《いひわけ》ばかりでは済まなくなつたので、万一にも此処ばかりは頼るまいと念じてゐた京都の親類を尋ねるため、川蒸気に乗つて出立した。
 久※[#二の字点、1−2−22]の訪問に手土産一つも調《ととの》ひかねて、きまり悪さに胸を掻きむしられる思ひで、霜の朝をその親類へと辿り着いた。と、何とはなく変つた家内の様子、奥の間より洩れて来る線香の香などにハッと驚きながらに通されると、未だ通知も届かぬ刻限なのにようこそ来た、実は母が八十の高齢で遂に昨日死んだとの悼《くや》み言《ごと》、釜貞は仏前へ差出す一物もなく、まして非常の際に無心に来たとも言はれもせず、茫然自失の体《てい》であつた。

    四

 一方、釜貞の家では、倅の長次は朝起きると共に父親の居らぬを怪しみ母に仔細を問へば、斯※[#二の字点、1−2−22]《かく/\》の次第と涙の繰言《くりごと》に歯を喰ひしばつて口惜《くや》しがつたが、これもみな、新八、太七の類が為せし業《わざ》、ようし、斯うなつたら幼しと雖も我も釜貞の倅だ、虹蓋位の手口が判らずに措《お》くものかと、それから凡《あら》ゆる智慧と経験に照らして土間に転《ころが》つてゐた地金の屑をかき集め、灼《や》き、打ち、又焼き又叩き、虹蓋の秘伝を自ら編み出さうと夜の目も寝ずに苦心に苦心を重ねたが、どう工夫し、どう溶《と》かし合せても、似よりのものさへ出来ず、憔悴せんばかりに幾日を送るのであつた。
 釜貞は他《ひと》の不幸に際会して目的の無心も云へず、といふて明日の命を繋ぐ糧さへ無い我家を想ふと矢も楯もあらず、男を枉《ま》げ心を殺して幾許《いくばく》かの金を才覚して、大阪の家へ細※[#二の字点、1−2−22]と認めた手紙に添へて送つてやり、自分は他の職を見つけるべく尚京都の縁者の許に身を置くのであつた。
 長次はやがて思案の末、新八、太七の買《かひ》つけの薬舗《くすりや》に行つて薬を調べたりして腐心するのであつたが、一向その秘法も埒明かず、果ては病人のやうに幼な心を痛めるのを、母親はとかくに慰め訓へて無駄な労力を止めようとするのであつた。
 しかし長次も親譲りの負けぬ気性、湯加減を偸《ぬす》んで名刀の名を馳せし刀鍛治左文字の故事を学ぶの最後の智慧を以て、或日は薄暮、或日は暁暗、亦時として通りすがりの様を装《よそほ》つて、新八、太七の工場の前を窺つては中の様子にそれとなく注意を払ふのであつたが、却※[#二の字点、1−2−22]《なか/\》にその効もなく、そのまゝ日数を経て行つた。

    五

 一日《あるひ》、雪降り凜※[#二の字点、1−2−22]たる寒気の中を例の如く太七の家の前を通るうち、プッツと切れた下駄の鼻緒に転ぶ途端、無作法に笑ひこける太七の家の職人共に、何が可笑しいと詰り寄るうち、ふと一人の職人が細工場の戸を開けて外を窺つた。その瞬間であつた。一種の異臭の幽《かす》かに浮び出るを敏《さと》くも感覚した長次は、身体の痛みも口惜しさも忘れ、跣足《はだし》のまゝに我家へ一散走り、
「母さん、判りました、判りました。漸く虹蓋の秘法が判りました。鉄漿《おはぐろ》です、あ、あの苦い鉄漿だつたのです」
と、雪まぶれ泥まぶれの体を畳に擦りつけて、語気も乱れて埒なく云へば、母親は呆れて我子の顔を仰ぐの他なかつた。
 元来金属の細工には色を出すのに必ず鉄漿を用ゐるもので、釜の仕上師ならば何処の家にでもそれ/″\貯蓄があつて、殊に古いものを珍重するため、弟子は独立するときその師匠から幾許《いくら》か頒つて貰ひ、それをまた己が弟子に頒ち伝へるのが例で、中には百年余りの鉄漿を有つてゐる者さへある程で、もとより釜貞の家にも家伝の鉄漿がないではなかつたが、たゞそのありふれた鉄漿などが虹蓋の色だしに用ゐるものだとは、不幸年少の長次には考へ及ばなかつたのである。
 が、さて長次は、一度太七の家で嗅いだ鉄漿の臭にヒントを得て忽ちに利発の性は虹蓋の秘法を自知し、それからと云ふもの一心不乱、鍛へに鍛へた苦心の虹蓋は今迄の同職より一層鮮かな色を湛へたので、奪はれた顧客も難なく旧に復したのみか、家運頓に挙り、日に隆昌を追ふて、後には父親を迎へて目出度く家庭の和楽を悦び
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