わぬところだから、六郎の父の讃岐守は、六郎に三好筑前守之長《みよしちくぜんのかみゆきなが》と高畠与三《たかばたけよぞう》の二人を付随《つけしたが》わせた。二人はいずれも武勇の士であった。
 与二は政元の下で先度の功に因りて大《おおい》に威を振《ふる》ったが、兄を討ったので世の用いも悪く、三好筑前守はまた六郎の補佐の臣として六郎の権威と利益とのためには与二の思うがままにもさせず振舞うので、与二は面白くなくなった。
 そこで与二は竹田源七《たけだげんしち》、香西又六《こうさいまたろく》などというものと相談して、兄と同じような路をあるこうとした。異なっているところは兄は六郎澄元を立てんとし、自分は源九郎澄之を立てんとするだけであった。とても彼のように魔法修行に凝って、ただ人ならず振舞いたまうようでは、長くこの世にはおわし果つまじきである、六郎殿に御世《みよ》を取られては三好に権を張り威を立てらるるばかりである、是非ないことであるから、政元公に生害《しょうがい》をすすめ、丹波の源九郎殿を以て管領家を相続させ、我※[#二の字点、1−2−22]が天下の権を取ろう、と一決した。
 永正《えいしょう》四年六月二十三日だ。政元はそのような事を被官どもが企てているとも知ろうようはない。今日も例の通り厳冷な顔をして魔法修行の日課を如法に果そうとするほかに何の念もない。しかし戦乱の世である。河内《かわち》の高屋《たかや》に叛《そむ》いているものがあるので、それに対して摂州衆、大和衆、それから前に与一に徒党したが降参したので免《ゆる》してやった赤沢宗益の弟|福王寺喜島《ふくおうじきじま》源左衛門和田源四郎を差向けてある。また丹波の謀叛対治のために赤沢宗益を指向《さしむ》けてある。それらの者はこの六月の末という暑気に重い甲冑を着て、矢叫《やさけび》、太刀音《たちおと》、陣鐘《じんがね》、太鼓の修羅《しゅら》の衢《ちまた》に汗を流し血を流して、追いつ返しつしているのであった。政元はそれらの上に念を馳せるでもない、ただもう行法が楽しいのである。碁を打つ者は五|目《もく》勝った十目勝ったというその時の心持を楽んで勝とうと思って打つには相違ないが、彼一石我一石を下《くだ》すその一石一石の間を楽む、イヤそのただ一石を下すその一石を下すのが楽しいのである。鷹を放つ者は鶴を獲たり鴻《こう》を獲たりして喜ぼう
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