元は堅固に厳粛に月日を過した。二十歳、三十歳、四十近くなった。舟岡記《ふなおかき》にその有様を記してある。曰く、「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比《ころ》まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼《だらに》をへんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家《おいえ》相続の子無くして、御内《みうち》、外様《とざま》の面※[#二の字点、1−2−22]、色※[#二の字点、1−2−22]|諫《いさ》め申しける。」なるほどこういう状態では、当人は宜《よ》いが、周囲の者は畏れたろう。その冷い、しゃちこばった顔付が見えるようだ。
 で、諸大名ら人※[#二の字点、1−2−22]の執成《とりな》しで、将軍|義澄《よしずみ》の叔母の縁づいている太政大臣九条|政基《まさもと》の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親《えぼしおや》になって、その名の一字を受けさせ、源九郎|澄之《すみゆき》とならせた。
 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人※[#二の字点、1−2−22]も好い若君と喜び、丹波《たんば》の国をこの人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都した。
 ところが政元は病気を時※[#二の字点、1−2−22]したので、この前の病気の時、政元一家の内※[#二の字点、1−2−22]《うちうち》の人※[#二の字点、1−2−22]だけで相談して、阿波《あわ》の守護細川|慈雲院《じうんいん》の孫、細川|讃岐守之勝《さぬきのかみゆきかつ》の子息が器量骨柄も宜しいというので、摂州《せっしゅう》の守護代|薬師寺与一《やくしじよいち》を使者にして養子にする契約をしたのであった。
 この養子に契約した者も将軍より一字を貰って、細川六郎|澄元《すみもと》と名乗った。つまり澄元の方は内※[#二の字点、1−2−22]の者が約束した養子で、澄之の方は立派な人※[#二の字点、1−2−22]の口入《くちいれ》で出来た養子であったのである。これには種※[#二の字点、1−2−22]の説があって、前後が上記と反対しているのもある。
 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通《いちもんふつう》の者であったが、天性正直で、弟の与二《よじ》とともに無双の勇者で、淀《よど》の城に住し、今までも度※[#二の字点、1−2−22]《たびたび》手
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