様《かう》である。将門の在京中に、貞盛が嘗《かつ》て式部卿|敦実《あつざね》親王のところに詣《いた》つた。丁度其時に将門もまた親王の御許《おんもと》へ伺候《しこう》して帰るところで、従兄弟同士はハタと御門で行逢ふた。彼方《かなた》がジロリと見れば、此方《こちら》もギロリと見て過ぎたのであらう。貞盛は親王様に御目にかゝつて、残念なることには今日郎等無くして将門を殺し得ざりし、郎等ありせば今日殺してまし、彼奴《きやつ》は天下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知らないが、人相見でも無くて思ひ切つたことを貴人の前で言つたものである。此時は将門純友叡山で相談した後であるとでも云は無ければ理屈の立たぬことで、将門はまだ国へも帰らず刀も抜かず、謀反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郎等だにあらば打殺してましものをと言ふのは、余りに従兄弟同士として貴人の前に口外するには太甚《はなはだ》しいことである。親王様に貞盛がこれだけの事を申したとすれば、もう此時貞盛と将門とは心中に刃を研《と》ぎあつてゐたとしなければならぬ。未だ父の国香が殺された訳でも無し、将門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者《てふじや》をして知つてゐるといふ訳も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいとでも云ふのならば、後世の由井正雪熊沢蕃山出会の談のやうな事で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは余り奇怪である。然すれば貞盛の家と将門とが、もう此時は火をすつた中であつて、貞盛が其事を知つてゐたために、行く/\は無事で済むまいとの予想から、そんな事を云つたものだと想像して始めて解釈のつく事である。こゝへ眼を着けて見ると、古事談の記事が事実であつたとすると、国香が将門に殺されぬ前に、国香の忰《せがれ》は将門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを残念と思つたほどの葛藤《かつとう》が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるのである。戯曲的の筋は夙《はや》く此の辺から始まつてゐるのである。
将門は京に居て龍口の衛士になつたか知らぬが、系図に龍口の小次郎とも記してあるに拠《よ》れば、其のくらゐなものにはなつたのかも知れぬ。が、其の詮議は擱《お》いて、将門と貞盛の家とは、中睦《なかむつま》じく無くなつたには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、将門の父の良将の遺産を将門が成長しても国香等が返さなかつたことで、此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷も此から起つてゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、此の事実は有勝の事で、大日本史も将門始末も皆採つてゐる。将門在京中に既に此事があつて、貞盛と将門とは心中互におもしろく無く思つてゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合点が出来るのである。
今一つは将門と源護一族との間の事である。これは其原因が不明ではあるが、因縁《いんねん》のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前《さき》の大掾《だいじよう》で、そのまゝ常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波《つくば》の西に当るところで、国香もこれに居たのである。護は世系が明らかでないが、其の子の扶《たすく》、隆、繁と共に皆一字名であるところを見ると、嵯峨《さが》源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であつて、護の女を将門の伯父上総介良兼は妻にしてゐる。国香も亦其一人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた其一人を妻にしてゐる。此の良正は系図では良茂の子になつてゐるが、おそらくは誤りで、国香の同胞で一番|季《すゑ》なのであらう。
将門と護とは別に相敵視するに至る訳は無い筈であるが、此の護の一族と将門と私闘を起したのが最初で、将門の伯叔父の多いにかゝはらず、護の家と縁組をしてゐる国香の家、良兼の家、良正の家が特《こと》に将門を悪《にく》んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の家を中心とし、之に関聯して紛糾《ふんきう》した事情が有つての大火事と考へられる。将門始末では、将門が護の女《むすめ》を得て妻としようとしたが護が与へなかつたので、将門が怒つたのが原因だと云つて居る。して見れば将門は恋の叶《かな》はぬ焦燥《せうさう》から、車を横に推出したことになる。さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、将門の望んだ女を得て妻としてしまつた為に起つた事のやうに思はれるが、如何《いか》に将門が乱暴者でも、人の妻になつてしまつた者を何としようといふこともあるまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に有り得るにしても、皆が一致して手甚《てひど》く将門を包囲攻撃するに至るのは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして其女の縁に連《つらな》る一族総体から、此の失恋漢、死んでしまへと攻立てられたといふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ将門の方から手出しをしたにせよ、恋の叶はぬ忌※[#二の字点、1−2−22]しさから、其女の家をはじめ、其姉妹の夫たちの家まで、撫斬《なでぎ》りにしようといふのも何となく奇異に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一条《ひとすぢ》の事ではあるまい、可なり錯綜《さくそう》した事情が無ければならぬ。貞盛が将門を殺したがつた事も、恋の叶《かな》つた者の方が恋の叶はぬ者を生かして置いては寝覚が悪いために打殺すといふのでは、何様《どう》も情理が桂馬筋《けいますぢ》に働いて居るやうである。
故蹟考ではかう考へてゐる。将門が迎へた妻は、源護の子の扶、隆、繁の中で、懸想《けさう》して之を得んとしたものであつた。然るに其の婦人は源家へ嫁すことをせずして相馬小次郎将門の妻となつた。そこで※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]嫉《ばうしつ》の念禁じ難く、兄弟姉妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を併《あは》せて将門を殺さうとし、一面国香良正等は之を好機とし、将門を滅して相馬の夥《おびただ》しい田産を押収せんとしたのである。と云つて居る。成程源家の子のために大勢が骨折つて貰ひ得て呉れようとした美人を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比《ひごろ》から彼が居らなくばと願つて居た将門に其の婦人を得られたとしては、要撃して恨《うらみ》を散じ利を得んとするといふことも出て来さうなことである。然しこれも確拠があつてでは無い想像らしい。たゞ其中の将門を滅せば田産押収の利のあるといふことは、拠《よ》るところの無い想像では無い。
要するに委曲《ゐきよく》の事は徴知することが出来ない。耳目の及ぶところ之を知るに足らないから、安倍晴明なら識神を使つて委細を悟るのであるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、即ち将門死してから何程の間も無い頃に出来たといふ将門記の完本が有つたら訳も分かるのであらうが、今存するものは残闕《ざんけつ》であつて、生憎発端のところが無いのだから如何《いかん》とも致方は無い。然し試みに考へて見ると、将門が源家の女《むすめ》を得んとしたことから事が起つたのでは無いらしい、即ち将門始末の説は受取り兼ねるのであつて、むしろ将門の得た妻の事から私闘は起つたのらしい。何故《なぜ》といへば将門記の中の、将門が勝を得て良兼を囲んだところの条《くだり》の文に、「斯《かく》の如く将門思惟す、凡《およ》そ当夜の敵にあらずといへども(良兼は)脈を尋《たづ》ぬるに疎《うと》からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩《たと》ふ、若し終に(伯父を)殺害を致さば、物の譏《そし》り遠近《をちこち》に在らんか」とあつて、取籠めた伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文気を考へると、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふのであるから、将門が妻となし得なかつた者から事が起つたのでは無くて、将門が妻となし得たものがあつてそれから伯父と弓箭《きゆうせん》をとつて相見《あいまみ》ゆるやうにもなつたのであるらしい。それから又同記に拠ると、将門を告訴したものは源護である。記に「然る間|前《さき》の大掾《だいじよう》源護の告状に依りて、件《くだん》の護並びに犯人平将門及び真樹《まき》等召進ずべきの由の官符、去る承平五年十二月二十九日符、同六年九月七日到来」とあるから、原告となつた者は護である。真樹は佗田《わびた》真樹で、国香の属僚中の錚※[#二の字点、1−2−22]《さうさう》たるものである。これに依つて考へれば、良正良兼は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによつて婦の縁に引かれて戦を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と将門との間に事は起つたのである。して見れば将門が妻としたものに関聯して源護及び其子等と将門とは闘ひはじめたのである。
戯曲はこゝに何程でも書き出される。かつて同じ千葉県下に起つた事実で斯《か》ういふのがあつた。将門ほど強い男でも何でも無いが、可なりの田邑《でんいふ》を有してゐる片孤《へんこ》があつた。其の児の未《いま》だ成長せぬ間、親戚の或る者は其の田邑を自由にして居たが、其の児の成人したに至つて当然之を返附しなければならなくなつた。ところで其の親戚は自分の娘を其の男に娶《めと》らせて、自己は親として其の家に臨む可く計画した。娘は醜くも無く愚でもなかつたが、男は自己が拘束されるやうになることを厭ふ余りに其の娘を強く嫌つて、其の婚儀を勧めた一族達と烈しく衝突してしまつた。悲劇はそこから生じて男は放蕩者《はうたうもの》となり、家は乱脈となり、紛争は転輾《てんてん》増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣《いつしやく》の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女《むすめ》を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏《まと》めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶《めと》らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償《つぐな》ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌《よしなほ》、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗《ききやう》の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾《さいせう》共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視《べつし》して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
闘《たたかひ》は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦《いくさ》をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門
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