当時の世態人情といふものは何様《どん》なであつたらう。大鏡で概略は覗へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は栄華に誇つて、武士は漸《やうや》く実力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、藤原氏以外の者はたまたま菅公が暫時栄進された事はあつても遂に左遷を免れないで筑紫《つくし》に薨《こう》ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に将門は下総に勇ましい産声《うぶごえ》をあげたのである。抑《そも/\》醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮《さが》しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上《かみ》に貴胄《きちう》の[#「貴胄《きちう》の」は底本では「貴冑《きちう》の」]私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛《ひんゑん》は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸※[#二の字点、1−2−22]《ぜん/\》と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣《きぬ》を纏《まと》ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑《のどか》に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀《きりぎりす》のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会《せちゑ》の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗《あら》い衣を纏《まと》ひ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]《あら》い詞《ことば》を使ひ、面白くなく、鄙《いや》しく、行詰つた、凄《すさま》じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼《がき》の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子《しゆてんどうじ》や鬼同丸《きどうまる》のやうなものもあつたのであらう。醍醐天皇の御代と云へば、古今集だの、延喜式だのの出来た時であるが、其御代の昌泰二年には、都で放火殺人が多くて、四衛府兵をして夜を警《いまし》めしめられ、其三年には上野《かうつけ》に群盗が起り、延喜元年には阪東諸国に盗起り、其三年には前安芸守《さきのあきのかみ》伴忠行は盗の為に殺され、其前後|博奕《ばくち》大に行はれて、五年には逮捕をせねばならぬやうになり、其冬十月には盗賊が飛騨守《ひだのかみ》の藤原|辰忠《ときたゞ》を殺し、六年には鈴鹿山に群盗あり、十五年には上野介《かうづけのすけ》藤原厚載も盗に殺され、十七年には朝に菊宴が開かれたが、世には群盗が充ち、十九年には前《さき》の武蔵の権介《ごんのすけ》源任《みなもとのたふ》が府舎を焼き官物を掠《かす》め、現任の武蔵守高向利春を襲つたりなんどするといふ有様であつた。幸に天皇様の御聖徳の深厚なのによつて、大なることには至らなかつたが、盗といふのは皆|一揆《いつき》や騒擾《さうぜう》の気味合の徒で、たゞの物取りといふのとは少し違ふのである。此様な不祥のある度に威を張るのは僧侶|巫覡《ふげき》で、扶桑略記《ふさうりやくき》だの、日本紀略だの、本朝世紀などを見れば、厭《いと》はしいほど現世利益を祈る祈祷が繰返されて、何程|厭《いと》はしい宗教状態であるかと思はせられる。既に将門の乱が起つた時でも、浄蔵が大威徳法で将門を詛《のろ》ひ、明達が四天王法で将門を調伏し、其他神社仏寺で祈立て責立てゝ、とう/\祈り伏せたといふ事になつてゐる。かういふ時代であるから、下では石清水八幡《いはしみづはちまん》の本宮の徒と山科《やましな》の八幡新宮の徒と大喧嘩をしたり、東西両京で陰陽の具までを刻絵《きざみゑ》した男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいの神、今の道陸神《だうろくじん》ならん)と云つて騒いだり、下らない事をしてゐる。先祖ぼめ、故郷ぼめの心理で、今までの多くの人は平安朝文明は大層立派なもののやうに言做《いひな》してゐる者も多いことであるが、少し料簡《れうけん》のある者から睨《にら》んだら、平安朝は少くも政権を朝廷より幕府へ、公卿より武士へ推移せしむるに適した準備を、気長に根深く叮嚀に順序的に執行して居たのである。かういふ時代に将門も純友も生長したのである。純友が賊衆追捕に従事して、そして盗魁《たうくわい》となつたのも、盗賊になつた方が京官になるよりも、有理であり、真面目な生活であると思つたところより、乱暴をはじめて、後に従五位下を以て招安されたにもかゝはらず、猶《な》ほ伊予、讃岐、周防、土佐、筑前と南海、山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓《こ》して一挙して太宰府《だざいふ》を陥《おとしい》れた。苟《いやしく》も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時|崛強《くつきやう》の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯《ふ》して生白い公卿の下《もと》に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢《あへ》てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未《なほいま》だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉《じゆん》ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原《かづらはら》親王と申す一品《いつぽん》式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子|高望王《たかもちわう》が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾《ひたちだいじよう》、上総介《かづさのすけ》等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植《た》つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《よしより》、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名|良望《よしもち》は蓋《けだ》し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥《むつ》大掾、下総介《しもふさのすけ》、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《よしより》は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家※[#二の字点、1−2−22]の祖である。次に良持は下総介、従五位下、長田《をさだ》の祖である。次に良茂は常陸少掾《ひたちせうじよう》である。
扨《さて》将門は良将の子であるが、長子かといふに然様《さう》では無い。大日本史は系図に拠《よ》つたと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐる人もある。長子将持、次子将弘、第三子将門、第四子将平、第五子将文、第六子将武、第七子将為と系図には見えるが、将門の兄将弘は将軍太郎と称したとある。将持の事は何も分らない。将弘が将軍太郎といひ、将門が相馬小次郎といひ、系図には見えぬが、千葉系図には将門の弟に御廚《みくりや》三郎将頼といふがあつて、其次が大葦原四郎といつた事を考へると、将門は次男かとも思はれる。よし三男であつたにしろ、将持といふものは蚤《はや》く消えてしまつて、次男の如き実際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎将弘が早世したから、将門は実際良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の女《むすめ》である。此の犬養春枝は蓋《けだ》し万葉集に名の見えてゐる犬養|浄人《きよひと》の裔《すゑ》であらう。浄人は奈良朝に当つて、下総《しもふさ》少目《せうさくわん》を勤めた人であつて、浄人以来下総の相馬に居たのである。此相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏の蟠拠《ばんきよ》してゐたところで、将門が相馬小次郎と称したのは其の因縁《いんねん》に疑無い。寺田は取手駅と守谷との間で、守谷の飛地といふことであり、守谷が将門拠有の地であつたことは人の知るところである。将門は斯様《かう》いふ大家族の中に生れて来て、沢山の伯父や叔父を有ち、又伯父国香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅《きんまさ》、公連《きんつら》、公元、叔父良広の子には経邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、忠頼、叔父良持の子には致持《むねもち》、叔父良茂の子には良正、此等の沢山の従兄弟《いとこ》を有した訳である。
此の中で生長した将門は不幸にして父の良将を亡《うしな》つた。将門が何歳の時であつたか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋《けだ》し十何歳であつたらしい。幼子のみ残つて、主人の亡くなつた家ほど難儀なものはない。母の里の犬養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をやくところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたらしい年頃である。そこで一族の長として伯父の国香が世話をするか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私《わたくし》をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸《やうや》く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※[#二の字点、1−2−22]と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓《てづる》を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※[#二の字点、1−2−22]に技倆骨柄《ぎりやうこつがら》を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允《さまのすけ》となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟《いとこ》同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息《いき》のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異《をか》しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂《うはさ》するとかならば、※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]嫉猜忌《ばうしつさいき》の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様《さう》いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様《どう》の斯様《かう》のしたといふことは無くて、却《かへ》つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼《あきかね》の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯
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