原氏どもに捕へられるほど間抜《まぬけ》でも弱虫でも無かつた。其中将門軍の多治経明等の手で、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江《ひるまえ》で捕へた。蒜間江は今の茨城郡の涸沼《ひぬ》である。
前には将門の妻が執《とら》へられ、今は貞盛の妻が執《とら》へられた。時計の針は十二時を指したかと思ふと六時を指すのだ。女等は衣類まで剥取《はぎと》られて、みじめな態《さま》になつたが、この事を聞いた将門は良兼とは異つた性格をあらはした。流浪《るらう》の女人を本属にかへすは法式の恒例であると、相馬小次郎は法律に通じ、思ひやりに富んで居た。衣|一襲《ひとかさね》を与へて放ち還《かへ》らしめ、且《か》つ一首の歌を詠じた。よそにても風のたよりに我ぞ問ふ枝離れたる花のやどりを、といふのである。貞盛の妻は恩を喜んで、よそにても花の匂《にほひ》の散り来れば吾が身わびしとおもほえぬかな、と返歌した。歌を詠《よ》みかけられて返しをせぬと、七生|唖《おし》にでもなるやうに思つてゐたらしい当時の人のことで此の返しはあつたのだらう。此歌此事を引掛けて、源護の家と将門との争闘の因縁《いんねん》にでもこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉《のど》を鳴らしさうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石《さすが》に平安朝の匂のする談で、吹きすさぶ風の中にも春の日は花の匂のほのかなるかな、とでも云ひたい。清宮秀堅がこゝに心をとめて、「将門は凶暴といへども草賊と異なるものあり、良兼を放てる也、父祖の像を観て走れる也、貞盛扶の妻を辱《はづ》かしめざる也」と云つて居るが、実に其の通りである。将門は時代が遠く事実が詳しく知れぬから、元亀天正あたりの人のやうに細かい想像をつけることは叶《かな》はぬが、何様《どう》も李自成やなんぞのやうなものでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで、酔払つて管《くだ》さへ巻かなかつたらば、氏《うぢ》は異ふが鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》のやうな人と後の者から愛慕されただらうと思はれる。
戯曲はこゝにまた一場ある。貞盛の妻は放されて何様《どう》したらう。およそ情のある男女の間といふものは、不思議に離れてもまた合ふもので、虫が知らせるといふものか何《ど》うか分らぬが、「慮《おも》つて而して知るにあらず、感じて而して然るなり」で、動物でも何でも牝牡《ひんぼ》雌雄が引分けられてもいつか互《たがひ》に尋ねあてゝ一所《いつしよ》になる。銀杏《いてふ》の樹の雄樹と雌樹とが、五里六里離れて居てもやはり実を結ぶ。漢の高祖の若い時、あちこちと逃惑つて山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏がいつでも尋ねあてた。それは高祖の居るところに雲気が立つて居たからだといふが、いくら卜者《ぼくしや》の娘だつて、こけの烏のやうに雲ばかりを当にしたでは無からう。あれ程の真黒焦の焼餅やきな位だから、吾が夫のことでヒステリーのやうになると、忽ちサイコメトリー的、千里眼になつて、「吾が行へを寝《い》ぬ夢に見る」で、あり/\と分つて後追駈けたものであらうかも知れぬ。貞盛の妻もこゝでは憂き艱難しても夫にめぐり遇《あ》ひたいところだ。やうやくめぐり遇つたとするとハッとばかりに取縋《とりすが》る、流石《さすが》の常平太も女房の肩へ手をかけてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の模様を語る。柔らかいしつとりとした情合の中から、希望の火が燃え出して、扨《さて》は敵陣手薄なりとや、いで此機をはづさず討取りくれん、と勇気身に溢《あふ》れて常平太貞盛が突立上《つゝたちあが》る、チョン、チョ/\/\/\と幕が引けるところで、一寸おもしろい。が、何の書にもかういふところは出て居ない。
然し実際に貞盛は将門の兵の寡《すくな》いことをば、何様《どう》して知つたか知り得たのである。将門精兵八千と伝へられてゐるが、此時は諸国へ兵を分けて出したので、旗本は甚《はなは》だ手薄だつた。貞盛はかねて糸を引き謀《はかりごと》を通じあつてゐた秀郷《ひでさと》と、四千余人を率ゐて猛然と起つた。二月一日矢合せになつた。将門の兵は千人に満たなかつたが、副将軍春茂(春茂は玄茂か)陣頭経明|遂高《かつたか》、いづれも剛勇を以て誇つてゐる者どもで、秀郷等を見ると将門にも告げずに、それ駈散らせと打つて蒐《かゝ》つた。秀郷、貞盛、為憲は兵を三手《みて》に分つて巧みに包囲した。玄明等大敗して、下野下総|界《ざかひ》より退《ひ》いた。勝に乗じて秀郷の兵は未申《ひつじさる》ばかりに川口村に襲ひかゝつた。川口村は水口村《みづくちむら》の誤《あやまり》で下総の岡田郡である。将門はこゝで自から奮戦したが、官と賊との名は異なり、多と寡《くわ》との勢《いきほひ》は競《きそ》は無いで退いた。秀郷貞盛は息をつかせず攻め立てた。勝てば助勢は出て
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