のかみ》、山井庸仙《やまゐようせん》老が典薬頭、売卜の岩洲友当《いはずともあて》が陰陽《おんやう》博士《はかせ》になるといふ騒ぎ、たゞ暦日博士だけにはなれる者が無かつたと、京童《きやうわらべ》が云つたらしい珍談が残つてゐる。
上総安房は早くも将門に降つたらう。武蔵相模は新皇親征とあつて、馬蹄|戞※[#二の字点、1−2−22]《かつ/\》大軍南に向つて発した。武蔵も論無く、相模も論無く降伏したらしく別に抵抗をした者の談《はなし》も残つて居ない。諸国が弱い者ばかりといふ訳ではあるまいが、一つには官の平生の処置に悦服《えつぷく》して居なかつたといふ事情があつて、むしろ民庶は何様《どん》な新政が頭上《づじやう》に輝くかと思つたために、将門の方が勝つて見たら何様《どう》だらうぐらゐに心を持つてゐたのであらう。それで上野下野武蔵相模たちまちにして旧官は逐落《おひおと》され、新軍は勢《いきほひ》を得たのかと想像される。相模よりさきへは行かなかつたらしいが、これは古の事で上野は碓氷《うすひ》、相模は箱根|足柄《あしがら》が自然の境をなしてゐて、将門の方も先づそこらまで片づけて置けば一段落といふ訳だつたからだらう。相州|秦野《はたの》あたりに、将門が都しようかとしたといふ伝説の残つてゐるのも、将門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた為に生じたことであらう。燎原《れうげん》の勢《いきほひ》、八ヶ国は瞬間にして馬蹄《ばてい》の下になつてしまつた。実際平安朝は表面は衣冠束帯|華奢《くわしや》風流で文明くさかつたが、伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二|単衣《ひとへ》でぞべら/\した女どもと、恋歌《こひか》や遊芸に身の膏《あぶら》を燃して居た雲雀骨《ひばりぼね》の弱公卿《よわくげ》共との天下であつて、日本各時代の中でも余り宜《よろ》しく無く、美なること冠玉の如くにして中|空《むな》しきのみの世であり、やゝもすれば暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などよりも、中味は充実してゐない危い代であつたのは、将門ばかりでは無い純友などにも脆《もろ》く西部を突崩されて居るのを見ても分る。元の忽必然《クビライ》が少し早く生れて、平安朝に来襲したならば、相模太郎になつて西天を睥睨《へいげい》してウムと堪《こら》へたものは公卿どもには無くつて、却《かへ》つて相馬小次郎将
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