将門も真実の天子となれたかも知れない。弓削道鏡《ゆげのだうきやう》の一類には玄賓僧都《げんぴんそうづ》があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平の有つたのは何といふ面白い造物の脚色だらう。何様《どう》も戯曲には真の歴史は無いが、歴史には却《かへ》つて好い戯曲がある。将門の家隷《けらい》の伊和員経《いわのかずつね》といふ者も、物静かに将門を諫めたといふ。然し将門は将平を迂誕《うたん》だといひ、員経を心無き者だといつて容れなかつた由だが、火事もこゝまで燃えほこつては、救はんとするも焦頭爛頭《せうとうらんとう》あるのみだ。「とゞの詰りは真白《まつしろ》な灰」になつて何も浮世の埒《らち》が明くのである。「上戸《じやうこ》も死ねば下戸も死ぬ風邪《かぜ》」で、毒酒の美《うま》さに跡引上戸となつた将門も大酔淋漓《たいすゐりんり》で島広山《しまひろやま》に打倒れゝば、「番茶に笑《ゑ》んで世を軽う視る」といつた調子の洒落《しや》れた将平も何様《どう》なつたか分らない。四角な蟹《かに》、円い蟹、「生きて居る間のおの/\の形《なり》」を果敢《はか》なく浪の来ぬ間の沙《すな》に痕《あと》つけたまでだ。
将平員経のみではあるまい、群衆心理に摂収されない者は、或は口に出して諫《いさ》め、或は心に秘めて非としたらうが、興世王や玄茂が事を用ゐて、除目《ぢもく》が行はれた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厩別当多治経明を、常陸守に藤原玄茂を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それ/″\の受領が定められた。毒酒の宴は愈※[#二の字点、1−2−22]はづんで来た。下総の亭南《ていなみ》、今の岡田の国生《くにふ》村あたりが都になる訳で、今の葛飾《かつしか》の柳橋か否か疑はしいが※[#「木+義」、第3水準1−86−23]橋《ふなばし》といふところを京の山崎に擬《なぞ》らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新都が阪東に出来ることになつたから、景気の好いことは夥《おびたゞ》しい。浮浪人や配流人、なま学者や落魄公卿《らくはくくげ》、いろ/\の奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへれば、掃除屋が右大弁|汲安《くみやす》などと威張り出す、出入の大工が木工頭《もくのかみ》、お針の亭主が縫殿頭《ぬひ
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