が攻めて行つたのを禦《ふせ》いだものとしては、子飼川を渉《わた》つたり鬼怒《きぬ》川《がは》を渡つたりして居て、地理上合点が行かぬ。将門記に其の闘の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下総の野爪、大串は真壁の大越、取木は取不原《とりふばら》の誤か、或は本木村といふのである。攻防いづれがいづれか不明だが、記には「爰《こゝ》に将門|罷《や》まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」とあるに照らすと、何様も扶等が陣を張つて通路を截《き》つて戦を挑《いど》んだのである。此の闘は将門の勝利に帰し、扶等三人は打死した。将門は勝に乗じて猛烈に敵地を焼き立て、石田に及んだ。国香は既に老衰して居た事だらう、何故《なぜ》といへば、国香の弟の弟の第二子若くは第三子の将門が既に三十三歳なのであるから。国香は戦死したか、又焼立てられて自殺したか、後の書の記載は不詳である。双方の是非曲直は原因すら不明であるから今評論が出来ぬが、何にせよ源護の方でも鬱懐|已《や》む能《あた》はずして是《こゝ》に至つたのであらうし、将門の方でも刀を抜いて見れば修羅心|熾盛《しせい》になつて、遣りつけるだけは遣りつけたのだらう。然しこゝに注意しなければならぬのは、是はたゞ私闘であつて、謀反《むほん》をして国の治者たる大掾を殺したのではない事である。
 貞盛は国香の子として京に在つて此事を聞いて暇《いとま》を請《こ》うて帰郷した。記に此場合の貞盛の心を書いて、「貞盛|倩※[#二の字点、1−2−22]《つら/\》案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず、これ源氏の縁坐也云※[#二の字点、1−2−22]。孀母《さうぼ》は堂に在り、子にあらずば誰か養はん、田地は数あり、我にあらずば誰か領せん、将門に睦《むつ》びて云※[#二の字点、1−2−22]、乃《すなは》ち対面せんと擬す」とある。国香死亡記事の本文は分らないが、此の文気を観ると、将門が国香を心底から殺さうとしたので無いことは、貞盛が自認してゐるので、源氏の縁坐で斯様《かやう》の事も出来たのであるから、無暗《むやみ》に将門を悪《にく》むべくも無い、一族の事であるから寧《むし》ろ和睦《わぼく》しよう、といふのである。前に云つた通り将門は自分を攻めに来た良兼を取囲んだ時もわざと逃が
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