てん》増大して、終に可なりの旧家が村にも落着いて居られぬやうになつた。これを知つてゐる自分の眼からは、一齣《いつしやく》の曲が観えてならない。真に夢の如き想像ではあるが、国香と護とは同国の大掾であつて、二重にも三重にもの縁合となつて居り、居処も同じ地で、極めて親しかつたに違ひ無い。若し将門が護の女《むすめ》を欲したならば、国香は出来かぬる縁をも纏《まと》めようとしたことであらう。其の方が将門を我が意の下に置くに便宜ではないか。して見れば将門始末の記するが如きことは先づ起りさうもない。もし反対に、護の女を国香が口をきいて将門に娶《めと》らせようとして、そして将門が強く之を拒否した場合には、国香は源家に対しても、自己の企に於ても償《つぐな》ひ難き失敗をした訳になつて、貞盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や其子等は不面目を得て憤恨したであらう。将門の妻は如何なる人の女であつたか知らぬが、千葉系図や相馬系図を見れば、将門の子は良兌《よしなほ》、将国、景遠、千世丸等があり、又十二人の実子があつたなどと云ふ事も見えるから、桔梗《ききやう》の前の物語こそは、薬品の桔梗の上品が相馬から出たに本づく戯曲家の作意ではあらうが、妻妾《さいせう》共に存したことは言ふまでも無い。で、将門が源家の女を蔑視《べつし》して顧みず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事として、国香も護の子等も、殊に源家の者は黙つて居られないことになる。そこで談判論争の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意気地上、護の子の扶、隆、繁の三人は将門を敵に取つて闘ふに至つたらうと想像しても非常な無理はあるまい。
 闘《たたかひ》は何にせよ将門が京より帰つて後数年にして発したので、其の場所は下総の結城郡と常陸の真壁郡の接壌地方であり、時は承平五年の二月である。どちらから戦《いくさ》をしかけたのだか明記はないが、源の扶、隆等が住地で起つたのでも無く、将門の田園所在地から起つたのでも無い。将門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるのは確実で無い。将門と源氏等と、どちらが其の本領まで戦場から近いかと云へば、将門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠いが、本郷や鎌庭からなら近いところから考へると、将門が結城あたりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては釣合が取れない。若し将門
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