るか、次の伯父の良兼が将門等の家の事をきりもりしたことは自然の成行であつたらう。後に至つて将門が国香や良兼と仲好くないやうになつた原因は、蓋し此時の国香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎたことや、将門等の幼少なのに乗じて私《わたくし》をしたことに本づくと想像しても余り間違ふまい。さて将門が漸《やうや》く加冠するやうになつてから京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは将門自分の意に出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にせよ遙※[#二の字点、1−2−22]と下総から都へ出て、都の手振りを学び、文武の道を修め、出世の手蔓《てづる》を得ようとしたことは明らかである。勿論将門のみでは無い、此頃の地方の名族の若者等は因縁によつて都の貴族に身を寄せ、そして世間をも見、要路の人※[#二の字点、1−2−22]に技倆骨柄《ぎりやうこつがら》を認めて貰ひ、自然と任官叙位の下地にした事は通例であつたと見える。現に国香の子の常平太貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によつたか、微官ではあるが左馬允《さまのすけ》となつてゐたのである。今日で云へば田舎の豪家の若者が従兄弟《いとこ》同士二人、共に大学に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此処で考へらるゝことは、将門も鎮守府将軍の子であるから、まさかに後の世の曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無しの、伯父の気息《いき》のかゝつてゐるために世に立つてゐる者であり、一方は一族の長者常陸大掾国香の総領として、常平太とさへ名乗つて、仕送りも豊かに受けてゐたものである貞盛の方が光つて居たらうといふことは、誰にも想像されることである。ところが異《をか》しいこともあればあるもので、将門の方で貞盛を悪く思ふとか悪く噂《うはさ》するとかならば、※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]嫉猜忌《ばうしつさいき》の念、俗にいふ「やつかみ」で自然に然様《さう》いふ事も有りさうに思へるが、別に将門が貞盛を何様《どう》の斯様《かう》のしたといふことは無くて、却《かへ》つて貞盛の方で将門を悪く言つたことの有るといふ事実である。
勿論事実といつたところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談は顕兼《あきかね》の撰で、余り確実のものとも為しかねるが、大日本史も貞盛伝に之を引いてゐる。それは斯
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