山陽、西海を狂ひまはつたのかも知れない。純友は部下の藤原恒利といふ頼み切つた奴に裏斬りをされて大敗した後ですら、余勇を鼓《こ》して一挙して太宰府《だざいふ》を陥《おとしい》れた。苟《いやしく》も太宰府と云へば西海の重鎮であるが、それですら実力はそんなものであつたのである。当時|崛強《くつきやう》の男で天下の実勢を洞察するの明のあつた者は、君臣の大義、順逆の至理を気にせぬ限り、何ぞ首を俯《ふ》して生白い公卿の下《もと》に付かうやと、勝手理屈で暴れさうな情態もあつたのである。
将門は然しながら最初から乱賊叛臣の事を敢《あへ》てせんとしたのではない。身は帝系を出でゝ猶未《なほいま》だ遠からざるものであつた。おもふに皇を尊び公に殉《じゆん》ずる心の強い邦人の常情として、初めは尋常におとなしく日を送つて居たのだらう。将門の事を考ふるに当つて、先づ一寸其の家系と親族等を調べて見ると、ざつと是の如くなのである。桓武天皇様の御子に葛原《かづらはら》親王と申す一品《いつぽん》式部卿の宮がおはした。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子|高望王《たかもちわう》が平の姓を賜はつたので、従五位下、常陸大掾《ひたちだいじよう》、上総介《かづさのすけ》等に任ぜられたと平氏系図に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて大勢力を植《た》つるに至つたことは、此の高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子が、国香、良兼、良将、良※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《よしより》、良広、良文、良持、良茂と数多くあつた。其中で国香は従五位上、常陸大掾、鎮守府将軍とある。此の国香本名|良望《よしもち》は蓋《けだ》し長子であつた。これは即ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威を有してゐたに相違無い。良兼は陸奥《むつ》大掾、下総介《しもふさのすけ》、従五位上、常陸平氏の祖である。次に良将は鎮守府将軍、従四位下或は従五位下とある。将門は此の良将の子である。次に良※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《よしより》は上総介、従五位上とある。それから良広には官位が見えぬが、次に良文が従五位上で、村岡五郎と称した、此の良文の後に日本将軍と号した上総介忠常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放つた家※[#二の字点、1−2−22]の祖である。次に良
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