玉の上に泥絵具《どろえのぐ》彩りしと何が何やら独り後悔|慚愧《ざんき》して、聖書の中へ山水天狗楽書《やまみずてんぐらくがき》したる児童が日曜の朝|字消護謨《じけしゴム》に気をあせる如《ごと》く、周章|狼狽《ろうばい》一生懸命|刀《とう》は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成《なっ》て夢我《むが》夢中、きらめく刃《やいば》は金剛石の燈下に転《まろ》ぶ光きら/\截切《たちき》る音は空《そら》駈《かく》る矢羽《やばね》の風を剪《き》る如く、一足|退《すさ》って配合《つりあい》を見《み》糺《ただ》す時は琴《こと》の糸断えて余韵《よいん》のある如く、意《こころ》糾々《きゅうきゅう》気|昂々《こうこう》、抑《そ》も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験|修錬《しゅれん》、渦《うず》まき起って沸々《ふつふつ》と、今|拳頭《けんとう》に迸《ほとばし》り、倦《うむ》も疲《つかれ》も忘れ果て、心は冴《さえ》に冴《さえ》渡る不乱不動の精進波羅密《しょうじんはらみつ》、骨をも休めず筋をも緩めず、湧《わ》くや額に玉の汗、去りも敢《あえ》ざる不退転、耳に世界の音も無《なく》、腹に饑《うえ》をも補わず自然《おのず》と不惜身命《ふじゃくしんみょう》の大勇猛《だいゆうみょう》には無礙《むげ》無所畏《むしょい》、切屑《きりくず》払う熱き息、吹き掛け吹込《ふっこ》む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄《すさ》まじきまで凝り詰むれば、爰《ここ》に仮相《けそう》の花衣《はなごろも》、幻翳《げんえい》空華《くうげ》解脱《げだつ》して深入《じんにゅう》無際《むさい》成就《じょうじゅ》一切《いっさい》、荘厳《しょうごん》端麗あり難き実相|美妙《みみょう》の風流仏《ふうりゅうぶつ》仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退《あとずさ》り、ドッカと坐《ざ》して飛散りし花を捻《ひね》りつ微笑《びしょう》せるを、寸善尺魔《すんぜんしゃくま》の三界《さんがい》は猶如《ゆうにょ》火宅《かたく》や。珠運さま珠運さまと呼声《よびごえ》戸口にせわし。
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第十 如是本末究竟等《にょぜほんまつくきょうとう》
上 迷迷迷《めいめいめい》、迷《まよい》は唯識所変《ゆいしきしょへん》ゆえ凡《ぼん》
下碑《げじょ》が是非|御来臨《おいで》なされというに盗まれべき者なき破屋《あばらや》の気楽さ、其儘《そのまま》亀屋《かめや》へ行けば吉兵衛|待兼顔《まちかねがお》に挨拶して奥の一間へ導き、扨《さて》珠運《しゅうん》様、あなたの逗留《とうりゅう》も既に長い事、あれ程|有《あり》し雪も大抵は消《きえ》て仕舞《しまい》ました、此頃《このごろ》の天気の快《よ》さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道《そのみち》勉強の為《ため》に諸国|行脚《あんぎゃ》なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計《ばか》り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無《なか》ろうが若い人の癖とてあのお辰《たつ》に心を奪《うばわ》れ、然《しか》も取残された恨《うらみ》はなく、その木像まで刻むと云《いう》は恋に親切で世間に疎《うと》い唐土《もろこし》の天子様が反魂香《はんごんこう》焼《たか》れた様《よう》な白痴《たわけ》と悪口を叩《たた》くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢《あ》わぬ昔と諦《あき》らめて奈良へ修業に行《いっ》て、天晴《あっぱれ》名人となられ、仮初《かりそめ》ながら知合《しりあい》となった爺《じい》の耳へもあなたの良《よい》評判を聞せて貰《もら》い度《た》い、然し何もあなたを追立《おいたて》る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗《のぞ》けば像も見事に出来た様子、此《この》上長く此地に居《いら》れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付《つけ》てお前|可愛《かわゆ》く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様《よいよう》昨夕《ゆうべ》聢《しか》と考えて見たが、何《どう》でも詰らぬ恋を商買《しょうばい》道具の一刀に斬《きっ》て捨《すて》、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行《ゆか》れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事|仕《し》た覚《おぼえ》はないが、是《これ》が罪になって地獄の鉄札《てっさつ》にでも書《かか》れはせぬかと、今朝《けさ》も仏様に朝茶|上《あげ》る時|懺悔《ざんげ》しましたから、爺が勧めて爺が廃《よ》せというは黐竿《もちざお》握らせて殺生《せっしょう》を禁ずる様《よう》な者で真に云憎《いいにく》き意見なれど、此《ここ》を我慢して謝罪《わび》がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物《いきもの》杓子定規《しゃくしじょうぎ》の理屈で平押《ひらおし》には行《ゆか》ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺|
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