人《あるひと》仰せられしは尤《もっとも》なりけり。珠運《しゅうん》馬籠《まごめ》に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日|計《ばか》り苦《くるし》む所へ吉兵衛とお辰《たつ》尋ね来《きた》り様々の骨折り、病のよき汐《しお》を見計らいて駕籠《かご》安泰に亀屋《かめや》へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪《やぶ》医者の薬も瑠璃光薬師《るりこうやくし》より尊き善女《ぜんにょ》の手に持たせ玉える茶碗《ちゃわん》にて呑《の》まさるれば何|利《きか》ざるべき、追々《おいおい》快方に赴き、初めてお辰は我身の為《ため》にあらゆる神々に色々の禁物《たちもの》までして平癒せしめ玉えと祷《いの》りし事まで知りて涙|湧《わ》く程|嬉《うれ》しく、一《ひ》ト月あまりに衰《おとろえ》こそしたれ、床を離れて其《その》祝義《しゅうぎ》済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間《ひとま》の中《うち》に入り何事をか長らく語らいけん、出《いず》る時女の耳の根《ね》紅《あか》かりし。其翌日男|真面目《まじめ》に媒妁《なこうど》を頼めば吉兵衛笑って牛の鞦《しりがい》と老人《としより》の云う事どうじゃ/\と云さして、元より其《その》支度《したく》大方は出来たり、善は急いで今宵《こよい》にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁|入《いら》すればおれも一トつの善《よ》い功徳をする事ぞとホク/\喜び、忽《たちま》ち下女下男に、ソレ膳《ぜん》を出せ椀《わん》を出せ、アノ銚子《ちょうし》を出せ、なんだ貴様は蝶《ちょう》の折り様《よう》を知らぬかと甥子《おいご》まで叱《しか》り飛《とば》して騒ぐは田舎|気質《かたぎ》の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男|来《きた》りてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉《ひとし》くお辰あわただしく其男に連立《つれだち》て一寸《ちょっと》と出《いで》しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来《きた》るに吉兵衛|焦躁《いらっ》て八方を駈廻《かけめぐ》り探索すれば同業の方《かた》に止《とま》り居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦《しりがい》爰《ここ》に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻《みだら》なる行《おこない》はお辰に限りて無《なか》りし者をと蜘手《くもで》に思い屈する時、先程の男|来《きた》りて再《また》渡す包物《つつみもの》、開《ひらき》て見れば、一筆啓上|仕《つかまつり》候《そうろう》未《いま》だ御意《ぎょい》を得ず候《そうら》え共お辰様身の上につき御|厚情《こうせい》相掛《あいかけ》られし事承り及びあり難く奉存候《ぞんじたてまつりそうろう》さて今日貴殿|御計《おんはからい》にてお辰婚姻取結ばせられ候由|驚入申《おどろきいりもうし》候|仔細《しさい》之《これ》あり御辰様儀婚姻には私|方《かた》故障御座候故従来の御礼|旁《かたがた》罷《まか》り出て相止申《あいとめもうす》べくとも存《ぞんい》候え共《ども》如何《いか》にも場合切迫致し居《お》り且《かつ》はお辰様心底によりては私一存にも参り難《がたく》候|様《よう》の義に至り候ては迷惑に付《つき》甚《はなは》だ唐突不敬なれども実はお辰様を賺《すか》し申し此《この》婚姻|相延《あいのべ》申候よう決行致し候|尚《なお》又《また》近日参上|仕《つかまつ》り入り込《こみ》たる御話し委細|申上《もうしあぐ》べく心得に候え共《ども》差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候|間《あいだ》御受納下され度《たく》候|不悉《ふしつ》 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵|家従《けらい》田原栄作《たはらえいさく》とありて末書に珠運様とやらにも此旨《このむね》御|鶴声《かくせい》相伝《あいつたえ》られたく候と筆を止《とど》めたるに加えて二百円何だ紙なり。
[#改ページ]

    第七 如是報《にょぜほう》

      我は飛《とび》来《き》ぬ他化自在天宮《たけじざいてんぐう》に

 オヽお辰《たつ》かと抱き付かれたる御方《おかた》、見れば髯《ひげ》うるわしく面《おもて》清く衣裳《いしょう》立派なる人。ハテ何処《どこ》にてか会いたる様《よう》なと思いながら身を縮まして恐々《おそるおそる》振り仰ぐ顔に落来《おちく》る其《その》人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨《さて》は父様《ととさま》かと早く悟りてすがる少女《おとめ》の利発さ、是《これ》にも室香《むろか》が名残の風情《ふぜい》忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌《ごきげん》よろしゅうと言葉|後《じり》力なく送られし時、跡ふりむきて今|一言《ひとこと》交《かわ》したかりしを邪見に唇|囓切《かみしめ》て女々《めめ》しからぬ風《ふり》誰《たが》為《ため》にか粧《よそお》
前へ 次へ
全27ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング