お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類|珍重《ちんちょう》嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時《そのとき》は嘘《うそ》なりしなるべし。
下 弱《よわき》に施《ほどこ》すに能以無畏《のういむい》
コレ吉兵衛《きちべえ》、御《お》談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七《しち》様、昔は密男《まおとこ》拐帯《かどわかし》も仕《し》てのけたが、穏当《おとなしく》なって姪子《めいっこ》を売るのではない養女だか妾《めかけ》だか知らぬが百両で縁を切《きっ》で呉《く》れろという人に遣《や》る計《ばかり》の事、それをお辰《たつ》が間夫《まぶ》でもあるか、小間癪《こましゃく》れて先の知れぬ所へ行《ゆく》は否《いや》だと吼顔《ほえづら》かいて逃《にげ》でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間|一寸《ちょっと》縛って置《おい》たのだ、珠運《しゅうん》とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障《こしょう》。七《しち》、七、静《しずか》にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中《しゅくじゅう》での誉者《ほまれもの》、妙齢《としごろ》になっても白粉《おしろい》一《ひ》トつ付《つけ》ず、盆正月にもあらゝ木の下駄《げた》一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断|能《よく》も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切《はぎしり》を貴様に噛《か》んで涙をお辰に飜《こぼ》すは、姑《しゅうと》に凍飯《こおりめし》[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話|聞《きい》ては急に角《つの》を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上《あげ》ましょうかと老人《としより》の機嫌《きげん》を取る気になるぞ、それを先度《せんど》も上田の女衒《ぜげん》に渡そうとした人非人《にんぴにん》め、百両の金が何で要《い》るか知らぬがあれ程の悌順《やさしい》女を金に易《かえ》らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情《なさけ》が半分汲《く》めたならそんな事|云《い》わずに有難涙《ありがたなみだ》に咽《むせ》びそうな者。オイ、亀屋《かめや》の旦那《だんな》、おれとお吉《きち》と婚礼の媒妁役《なこうどやく》して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃《よし》て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介《ごやっかい》になろうとは申《もうし》ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処《ここ》へ御出《おだし》なされ、七が眼尻《めじり》が上《あが》らぬうち温直《すなお》になされた方が御為《おため》かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴《やつ》に頼まれて口をきく計《ばか》りじゃ、おれは当人じゃ無《なけ》れば取計いかねると仰《おっし》ゃるならば其男《そのおとこ》に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運|立出《たちいで》、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮《あぎと》張りて一ト癖|確《たしか》にある悪物《しれもの》、膝《ひざ》すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生《なま》弱々しい顔をして能《よく》もお辰を拐帯《かどわか》した、若いには似ぬ感心な腕《うで》、併《しか》し若いの、闘鶏《しゃも》の前では地鶏《じどり》はひるむわ、身の分限を知《しっ》たなら尻尾《しりお》をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰《おお》せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売《うら》せたくなければ御相談。ふざけた囈語《ねごと》は置《おい》てくれ。コレ七、静《しずか》に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体|小癪《こしゃく》な旅烏《たびがらす》と振りあぐる拳《こぶし》。アレと走り出《いず》るお辰、吉兵衛も共に止《とめ》ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧《ちえ》の無い男、無理に売《うら》ずとも相談のつきそうな者を。フ相談|付《つか》ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉《とら》え立上《たちあが》る裙《すそ》を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買《うりかい》するというは今日《こんにち》の理に外れた事、娼妓《じょうろ》にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾《やかま》しいわ、老耄《おいぼれ》、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞《しま》った、変改《へんがい》はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵《ののし》り小兎《こうさぎ》攫《つか》む鷲《わし》の眼《まな》ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是《これ》までと口を噤《つぐ》むありさま珠運|口惜《くちおし》く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐《あらし》に逢《あ》いて露|脆《もろ》く、此方《こなた》に向
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